バオバブの木の下で
若い男は昔のことを思い出していた。昔といってもそれほど遠い過去のことではない。ほんの数年前のことだ。
それは、頭を嚙み砕かれて血まみれになった大型の獣だった。黄色い体毛に黒い斑点が鏤められている。その模様からしてチーターだと思われた。ヒョウではない。それはスリムな体型からも推測された。おそらく鰐に襲われたのだろう。その死骸が川辺の浅瀬で水にのめり込むようにして横たわっていたのだ。水を飲みに来たところを水中に潜んでいた鰐に襲われたのだろう。白人の監視官の旦那が口径375マグナム・ライフルで鰐の頭に弾を浴びせなければ水の中に引き摺り込まれていたことだろう。弾は鰐の頭を掠めるように当たってから向こうへ飛んでいき、水煙を立てた。鰐は獲物を放し、水の中に後ろ向きに泳いで音もなく没して消えた。
男は狩るものと狩られるものが互いの姿を認めた一瞬の両者の眼を、つまり視野を思い描いた。恰も見る者が見られる物になったかのような視野を。
駆け寄って見ると、白い腹に膨らんだ乳房がついている。どうやらこの雌には赤ちゃんがいるようだ。このままでは子供も餓死してしまう。早く見つけなければ、長く生きられないのは確実だ。チーターは数を減らしている種だ。でも、サバンナの広い叢林から子供を見つけるのはとても困難だ。だが、それは、我々の仕事でもある。
「やがて死ぬ」、それはあらゆる生き物の宿命とはいえ、無残なことに思われてならない。
命は一つが死ねば他の一つが生きられるのだと思われた。確かに、生を
腹の真っ白な毛の奥から覗くピンク色の乳首――本当にそうなのだろうか? では、そうでないなら、自分はいったい何を見たのだろう?――を見ているうちに、白人の女もこのような乳首をしているのだろうか、と彼は思い及んだ。
彼は眼の前にいる、笑みを含んだかのような眼差しをじっと彼に向けている若い女を見遣った。それは彼の次の行動を待っているかのようだ。いや、そうに違いない。
彼は思う。《誰なんだ、こいつは?》
するとまた、別の映像が脳裡に浮かぶ。今度は野犬だった。
嘗ては人間に飼われていたが、何らかの事情で飼えなくなって捨てられ半野生化した犬というのはとても危険で、人間を襲うことは少ないが、鹿などを食べるわけでもなく無闇に殺しまくるという恐るべき狩りを行うようになる。ただ殺すために殺すのだ。あれは、そんな犬の群れがいるという噂を聞きつけて追跡していた時のことだった。そう、我々は有害な生き物を駆除せねばならないのだ。
我々はついに犬の群れに追い着いたのだが、不思議なことに、犬たちが円陣になって地面に座っている。見るとその真ん中に大きな蛇が一匹いて鎌首を擡げている。その光景はまるで僧侶の説教を聞いているかのようだ。多くの犬は真っ直ぐ蛇を見つめているが、一部の犬は首を垂れて、神妙な面持ちをつくっているかのようだ。
舌を忙しなくひらめかせている蛇の、時おり威嚇するように大きく開ける口の中は真っ黒だ。
最初に仕掛けた、若く経験に乏しいであろう犬は瞬く間に首元を嚙まれる。蛇は首を膨らませ、喉元からポンプのように毒液を注入しているのがわかる。犬は悲鳴をあげて地面をのたうち回る。だが、その直後、その隙に、別の犬が蛇の首元に嚙みつく。蛇は最初に嚙んだ犬から口を放し、嚙まれた犬を嚙み返そうと口を大きく開けているが頭を回せない。蛇の体は大きな疑問符のようにくねっている。老練な犬なのだろう。蛇は体をその犬に巻き付け締め上げようとするが、他の犬たちがてんでに蛇の体に嚙みつき首を思い切り振って引き離そうとする。犬たちは蛇の発する強い疑念を力ずくでねじ伏せ、蛇にこの世を支配する力についてわからせたのだった。やがて蛇の体は力なく縄のようになって地面に横たわった。
勝負はあっけなく終わる。彼の説教はまったく脆くも崩れ去った。その声なき言葉はこの世から消え去ったのだ。誰の心にも聞き届けられることなく。
最初に嚙まれた犬は頭を垂れて地面に座り込み、じっと地面の一点を凝視しているが、その目はガラスを嵌め込んだかのようで、既に生気がなかった。その涎を垂れ流していた犬はやがてひっくり返って横倒しになる。そして、犬が完全に息を引き取らないうちに、アオバエが早くもその体にたかり、自分たちの卵を産みつけようと、犬の耳の中に這入っていった。蝿は耳の中に這入り込んで、そこに居座り、雑然とした唄を暢気に歌い、死んだ犬に繰り返し自分の声を聞かせ続けることだろう。
我々は一時の狂乱的な騒ぎの後にふいに訪れた静寂の中でそっとライフル銃を構え、誰と言うこともなく狙いを定めると引き金を引いてその犬の群れを皆殺しにした。
そうだ、もう一つ思い出されることがある。
雄のライオンはある程度歳をとると群れを離れて放浪を始める。そうした放浪する若い雄ライオンに別の群れの雌が浮気したことがあった。
あれは、その雌の属する群れの雄が年老いて繁殖能力がなくなって発情した雌に対応しきれなくなったためではないかと我々は噂したものだった。
男は、いつか群れから離れて――それは自分から出たのではなく、追い出されたためなのかもしれないが――、一人放浪を始めねばならない。だから、俺も独り立ちをしなければならなくなったということかな。それで、世間という人の世を彷徨うのだ。
若い雄ライオンは放浪中に生涯を共に生きる同じ雄の仲間を見つけようとするらしい。いつか互いに一緒に暮らし始めようとするのだ。それも、雌ではなく雄とだ。それにしても、仲間を作れなかったライオンはどうなってしまうんだ? ライオンと人間とは違うにしても、今の俺にそれは気懸りなことに思われてならない。
そうだ、俺もライオンのように、追い出されるとしても元いた群れに再び戻れることがあるかもしれない。振り出しに戻るんだ。そう考えて俺はひとり嗤う。それとも本当に一人きりになってしまうんだろうか、しかも一生涯にわたって? それはわからない。
見ると、自らの根を空に向かって差し伸べているような木が生えている。
そうだ、あの島にはたくさんこの木が生えているが、此処にはさほど多くない。その中の一本だが。
あれは確か、研修で沖の島国にいる猿を見に行ったときのことだった。そうだ、此処ではない。あのような猿は此処にはいないのだから。だが、なぜか今、その時の映像が頭の上に再生されてならない。白と茶の縞模様の長い尾を垂直に立てた一群れの猿たちがこっちへ向かって歩いてやって来る様子が。
すると、別の群れとの喧嘩が始まる。縄張り争いだ。
彼らはなぜ争うのか、それはもちろん喰いもののためだ。喰いものとは、たいていは木の実だ。
彼は思った。隣村の別の部族との
いやいや、あのような猿が此処らにいるはずがない。あの映像は今の現実だったのか、それとも、過去に見た記憶の中の映像だったのか、どちらだろう? わからない。それらが
すると、この女の言っていることも本当は起きていないことではないのか? だから、つまり、この女の嘘だ。幼馴染みではあるものの、隣りの部族の女だ。だから正確には幼馴染みとは呼べないだろう。それは不正確な呼び方だ。顔見知りと呼ぶべきだ。
男は女の告白を、ほんの少し前に聞いたことを思い返す。
《赤ちゃんができたの。》
〈そんな馬鹿な。たった一度のただの悪戯じゃないか。そうさ、二人してそのような悪に酔いしれていただけのことさ。極端に熱いものや冷たいものに触れてみようとするようなスリルに我が身を晒してみようとしていただけだ。俺にも我慢できなかったこともあるにはあったが。だから、本意に従ったとはいえるだろうが、それがどうしてこんなことになるんだ!?〉
〈俺を誘ったのはこいつだ。あのとき、この木の下で、服を手繰り上げて自分の太腿を俺に見せたじゃないか。顔に満面の笑みをつくって。厚ぼったい唇から真っ白な歯が覗いて光っていた。それでどうしてこんなことになってしまうんだ!?〉
彼はこちらに向かって尻を突き出してバオバブの木にしがみつきながら時おり嗚咽の声をあげていた女の有り様を思い描いた。それは二人して愉しかったずっと昔の記憶のようでもあり、一人きりで催す夜の淫らな空想のようでもあった。
あのとき事の後で、結び合っていた躰を離すと、女は崩れ落ち、樹の根元に身体を丸めて横たわった。それはとても小さく、
走りながら俺はこんなことを考えた。
〈俺よ、安心しろ。お前は安全だ。なんたって猿しかあれを見ていなかったんだからな。これが秘かな悪の愉しみってやつなんだろう。〉
それは本当だった。
〈そうだ、確かあのとき、終わってから俺は素早く身支度を整え、走って逃げた。女をその場に放っておいて、一目散に逃げた。だがきっと、俺は追いつかれてしまったんだ。だが、いったい何に追いつかれたと言うんだろう。この女か、赤ん坊か。いや、赤ん坊はまだいない。赤ん坊を身籠った女ということだろう。〉
〈それに、こいつは今なぜ真っ白な歯を見せて、笑みを浮かべているんだ。俺たちがどうなるかわかっているのか? 知らないはずがないだろう。村を出て行かなけりゃならないじゃあないか! 俺たちは部族が違うんだから。それでいったい、どうするというんだ! あそこを離れて生きていくことができるだろうか? わからない。それはわからない。できるかもしれないし、できないかもしれない。だが、大変なことには違いない。これは死刑を宣告されたも同然だ。俺はこれから何かお芝居をせねばならないだろう。あるいは、何もかもを捨てて逃げるんだ。でなければこの世で生き永らえられない。〉
そのとき男の脳裡には、嘗てほんの少年だった頃に狂暴化した象に襲われた村の女が鼻で高々と釣り上げられて何度も地面に叩きつけられ、足で踏みつけられた恐るべき映像が甦った。あれほど記憶の底に封印していた過去であるはずなのになぜ今こんな時に限って甦るのか彼にはわからなかった。しかもその映像はどういうわけか、執拗に繰り返し彼の頭の中で再生されるのだった。
そう、あれこそが人を喰う怪物と獲物との関係だ。そして怪物はいつも、思いがけないところで何の前触れもなく唐突に出現する。
あれは人の心がけっして思いつかない残忍な処刑であったのかもしれない。俺もそうなる運命だったのかもしれない。いや、彼らもさすがに俺を殺しはしないだろう。村から追い出されるんだ。つまり、追放だ。何かを、この世に生まれた人間としての権利を剝奪されるんだ。ひょっとするとそれは、殺されるより辛いことかもしれないが。そうだ、人と人がつくる社会の中でそう宣言されるのを避けるためには、お芝居をして自分は異邦人ではないと見せかけなければいけないんだ、そうだ、生き延びるためにはお芝居をすることが重要なんだ、と彼は思った。