昨日の午前1時半ごろ兄から電話がかかってきた。母が亡くなったと。

 

87歳で死因は心筋梗塞。突然のことだった。滞在していた施設によると、夜9時の点検の時には普通にベッドで寝ていて11時に見回りに行った時に床の上でうつぶせに倒れていたという。病院に運ばれるが呼吸が止まった状態で結局深夜1時半ごろには死亡が確認された。

 

もっとも、もうこれが最後だろうと思ったのは今までに2回あり、それでも何とか生き延び、今回はむしろ静かに逝かせてあげたかったという気持ちもあり、大きなショックはない。

 

とはいえ、自分の直接の身内を亡くすのはこれが初めてで(父親は僕が5歳の時に亡くなっているのであまりにも過去すぎるし、祖父母も僕が10代の時に亡くなっている)、ショックはじわじわとやってくる。

 

この世代の人たちはみなそうだが波乱万丈の人生を送っている。

 

1935年生まれなので6歳ぐらいの時に太平洋戦争が始まり、10歳ぐらいで終戦を迎えている。母たちは戦中満州にいて、終戦と同時に命からがら引き揚げてきた。その時のエピソードは母からも祖母からも何度も聞いている。ロシア兵が家にやってきてみなで押し入れに隠れた。その時四男の叔父はまだ赤ん坊で、みなで彼が泣かないように祈ったという。

 

そして戦後の物がない時代。母は大の倹約家なのだが、それもその時代に培ったのだと思う。もっとも母の場合度を越していて、節約家というよりケチのケチのドケチで、例えば長男である叔父(叔父一家は近くに住んでいて子供のころからいろいろお世話になっていた)たち同世代に比べても極端だった。外食はまずしない。出かけた時にレストランなどに入ったことはほぼなく、公園のベンチで持参の弁当を食べるのが定番だった。あと、よくパンの耳を食べた。スーパーに行けばタダでもらえるからだ。我が家でパンといえばパンの耳。

 

父が5歳の時に亡くなったと言ったが、うちは母子家庭で貧乏だったこともある。

 

そうそう、22歳で結婚し、10年間の結婚生活の後32歳で夫を亡くしている。8歳と5歳の男の子を抱えて。その後一人で僕たちを育てた。

 

それはもう半端ない苦労をしたに違いない。とはいえ、経済的にそこまで大変だったかというと、僕が18歳になるまでは父の年金や生活保護があり、パンが買えないほどではなかった。耳を食べるのは母のこだわりによるものだ。

 

こだわり。そう、この節約魂は一種の主義のようなもので、何が何でも貫かなければならないものだった。そのお陰で僕には忍耐力がついた。少々のことなら我慢できる。

 

母には様々な主義があった。例えばお年玉をあげない主義。お年玉を渡すという風習自体をばかばかしいと感じていて、拒否していた。それはお年玉に限らず昔の慣習の多くのものに反対していた。

 

母の兄弟は4人いて、父の兄弟は5人いたので正月にはそこそのこ数の子供たちが集まることになり、母子家庭にとっては大きな出費となり、確かにばかばかしいといえばばかばかしい。

 

もっとも、僕らがもらうことに関しては反対しない。なので、正月は我が家にとって一番儲かる時期だった。(笑)

 

母は、今で言えばちょっとした変わり者というか、それこそ反ワク、反農薬の人たちのように思われていたかもしれないが、あの時代にあそこまで自分の意見を主張し、社会の主流派とは違う生き方を貫き通したことは本当にすごいと思う。

 

もっとも、僕から見るとそのこだわりも自己流というか、偏っていて、矛盾だらけだったが。例えば食品添加物には反対していたがオーガニックにはこだわっていなかったし、パンの耳であるならば普通の食パンであろうが何だろうが構わなかった。

 

学生時代は自称文学少女だったらしく、いわゆるインテリだった。大学だって結婚後に夜間学校に通って出ている。(当時は経済的な理由等で大学に行けない家もたくさんあった)

 

山登りも趣味だったらしくそのようなサークルに入っていた。僕も小学生の時にそのサークルのメンバーと一緒に木曽の御嶽山に登っている。

 

子育てに関してはとてもよくしてくれたと思う。宿題をさせられたことは一度もなく、とにかく自由にさせてもらった。習い事だって、僕が絵の教室に通いたいと言えば通わせてくれたし、少年野球チームに入りたいと言えば入らせてくれた。そう、不思議なことにそういう時には節約主義はなくなるのだ。

 

中学の時には山村留学にも行かせてくれたが、今から考えてみればそこそこお金がかかっていたはずで、よく出してくれたと思う。

 

母に言わせると、普段節約しているからこそ、そうした時にお金が出せるのだという。

 

大学に行かないという僕の選択も受け入れてくれたし、基本的には僕の将来の夢には反対しなかった。

 

いや、それは非常に驚くべきことだ。

 

だって、高校卒業後、3年ぐらいかけて世界一周をし、その後は理想の共同体をつくるというものだったのだから。

 

普通だったら将来の生活の安定を考えて、せめて大学だけは行っておいたほうがいいとか言うはずだ。冒険は大学卒業後でもいいと。

 

しかも我が家は貧しかったかもしれないが一応インテリで通っていたのだから。父も経済的理由で一流大学出ではないのだが、頭の良さでいえばトップクラスだったし、後から聞いたところ祖父にあたる父の父は東大の前身だった帝国大学を出ている。

 

父が生きていれば確実に大学に行かされていただろう。

 

もっとも東大はなかったと思うが。我が家の中で東大はあまりいいイメージがなかった。いや、早稲田や慶応などもそうだ。

 

逆に好まれたのが、筑波大学とか国際基督教大学とか。そういう大学のほうがより知的で進歩的であるイメージがあった。信州大学や千葉大学などの国立大学もよかった。学費も安いし。(笑)。私立一流校で唯一評価が高かったのが上智大学。

 

つまり、インテリといっても主流のものではなく、どこかひねくれたところがあった。

 

ということで、一流大学に行く必要はないがせめてそうした大学には行ってほしいというのが母の思いだったのだろう。

 

ただ僕の理屈っぽい主張に最後は折れるしかなかったのだろう。

 

今の僕があるのは母のお陰だというのは決して言い過ぎではない。母がいなければ、僕のような人生を歩むことはできなかっただろう。

 

もっとも、この選択は母に新たな試練をもたらすことになる。

 

息子を海外に出したことによって異文化と向き合うことになったのだ。帰国後僕が持ち帰った欧米的な価値観とあり方。もちろん、自称進歩的だった母はそうしたものを歓迎できるはずだった。とはいえ昭和初期生まれの人間にとって欧米文化というものはかけ離れ過ぎていた。ただでさえ世代間ギャップというものがあった(僕らの世代はシラケ世代、5無主義、新人類などと言われ、当時の大人からは理解不能の人種だった)のに、そこに文化的ギャップまで付け足された。(この辺は『味噌汁ロマンス』に出てくる)

 

もっとも、我が家ほど直接影響を受けたわけではないだろうが、母の世代はその後もたらされる欧米化とグローバル化の波にみな翻弄されたことだろう。そしてテクノロジー。パソコン、携帯電話、インターネット、スマートフォンとついていけない変化に直面する。母が子供の時にはテレビだってなかったのだから。

 

第二次世界大戦、高度経済成長、バブルの崩壊、IT時代、そしてコロナまでをすべて経験することになるとは。

 

コロナの影響ももちろん受ける。ここ2年間面会禁止で、僕が最後に母に会ったのは2020年の暮れだった。

 

これから押し寄せるかもしれない食料危機を体験しなくてもよかったということは、ある意味ラッキーだったのかもしれない。母にとっては一番の得意分野だったかもしれないが。

 

それは叔父が言っていたっけ。3.11の直後に。「戦中戦後を思い出せばなんだってできると)

 

そうだ。母は東日本大地震の影響も受けた。

 

近くにいた息子夫婦が西日本に引っ越してしまったのだ。

 

本当ならば母はもっと長生きしてもおかしくなかった。意識的にではないが健康習慣を実践していた。

 

まず、大の散歩好き。とにかくよく歩いた。毎日近くの川沿いを歩いたり、駅までも25分かかるし、隣駅の自治医大には自転車で行っていた。本屋が好きで自治医大駅前にはTSUTAYA書店があり、ほぼ毎日のように自転車で行っていたし、そのひとつ先の石橋駅の近くにはブックオフがあってそこまでもよく自転車で往復していた。宇都宮線の一駅は結構距離があり、往復で20キロぐらい走っていると思う。

 

二番目は大のお風呂好き。お風呂はだいたい1時間ぐらい入っている。とにかく長く湯船に浸かっているのが好きで、ヒートショックプロテインを毎晩得ていただろう。ヒートショックプロテインはサウナの健康効果のひとつと言われているものだが、お風呂に10分以上浸かっていても出てくるもので、日本人の長寿の秘訣だと思っている。

 

徒歩5分の場所にスーパー銭湯のような場所があり、よく通っていた。

 

高齢になってからは一日2食。なぜか午前10時頃と午後4時頃に食べていた。間欠的断食でもこの時間帯に食べることが概日リズム(サーカディアンリズム)的には一番いい。

 

ただ、食事内容がよくなかった。もともとは悪くなかったのだが高齢になってから悪化した。例のケチさが影響し、半額ものをやたら買ってくる。半額弁当。スーパーに半額のシールが貼られる時間帯に行っては弁当を三つも四つも買ってくる。それらを数日かけて食べ続けるわけなので、ほとんどが賞味期限後に食べることになる。ただでさえ、食品添加物が多いのに。そうなのだ。最近では添加物にもこだわってはいない。半額の誘惑には勝てないのだ。

 

ただ、一番の要因は生きがい感の喪失だと思う。60歳を過ぎたあたりから人生の目的もなくなってきた。子供たちも独立して家庭を持ち、自分たちのことで忙しくなった。母の唯一のつながりは僕と兄だけだった。

 

変わり者であるがゆえに人付き合いも苦手だった。とにかく人に合わせることができない。

 

あと、母の時代には今のように多様な選択肢がなかった。変わり者は変わり者の仲間と交流すればいいが、昔は変わり者がそんなにたくさんいなかったし、出会える場所自体が少なかった。そして母の場合趣味嗜好という部分で変わり者というだけでなく性格的に人に合わせることができなかったし、ゆずるということができなかった。

 

母は孫にも興味を示さなかった。孫が生きがいになるケースはよくあるが、彼女の場合そうならなかった。直接の息子たちは愛せても嫁の血の入った孫はまた別なのだろうか。仮に母に娘がいてその子供ができた場合どうなるかはわからないが。

 

施設に入るまでは僕らとの交流があった。滋賀のうちにしばらく滞在していた時期もあったし、兄とも定期的に会っていた。兄が転勤で関東に戻ったと同時に栃木の家に戻ったのだが、その時も兄はよく訪れていた。

 

2020年の秋から施設に入ったのだが、そこから面会できない期間が今日まで続き、唯一の生きがいだった子供たちとの交流がなくなった。外出もできないので散歩もできない。散歩に関してはすでにほとんど歩けなくはなっていたが。

 

施設の入居者とも特に交流はなかったようで、唯一していたのがテレビを見ることだけ。それなりに教室等の活動は提供されていたのだが。

 

あとは生きることに疲れたのだと思う。それは何度も口にしていた。うちに滞在していた時期も一日の大半寝ていた。20時間ぐらい寝ていたのではないかと思う。まるで赤ん坊が大半を寝て過ごしているように半分は無意識の世界に行っていた。あたかも少しずつ死に向けて慣らしていたかのように。

 

そういう意味ではようやくこの世を卒業できてよかったのかもしれない。

 

僕は長寿のことをやっているが、必ずしも長生きすることがいいとも思っていない。生きる目的があってそれを達成するために長生きするのはいいことだが、目的がない場合、さっさとこの世を終わらせて次のステージに移行すればいいと思っている。死が終わりだと思っていないので。

 

きっと、ようやく自由にのびのびとしていられると思う。この世は母には合わず、苦しかったのだと思う。僕にはその気持ちがよくわかる。母の多くの性質を継承しているのだから。

 

散歩好きでお風呂好き、まさに僕の性質だ。

 

本当に長い間お疲れさまでした。

 

社会に新しい風をもたらすために頑張って闘ってきたと思う。

 

そして、そのすべては僕に受け継がれた。

 

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