かの鈴木大拙の云われるが如く、「霊性」の観点は必要である。彼自身が自己自身の体験を基にして哲学体系をつづられているが、様々な悟りの言霊が日本語でつづられているので、それらを深く味わっていくことが大切であると思う。


 仏教哲学を理解する上でも、鈴木大拙のような観点は必要であり、「霊性の永遠性」というものを前提にした仏教理論、仏教哲学、仏教解釈でなければならぬと思うのである。その意味で、鈴木大拙から学ぶものは多いといえよう。一宗一派を超えて、人々の魂に訴えかけられるものが多いといえよう。


 このように、仏教というものは、本来、「霊性」の観点が充分に入っている体系であるととらえるのが本来のあり方なのである。

 

 西田幾多郎の良き理解者として、また、親友として、鈴木大拙のような方がおられたということは、日本文化を世界的に開闢する上でも欠くことの出来ない観点であり、仏教的精神の理解の上でも大切な視点であろうと思われる。


 鈴木大拙のような解脱の心をもっていれば、自然に周囲の方も解脱してゆくであろうと思われるが、このような哲学者が居たということを一つの指標にしていただきたいのである。それは、教養の面からも、精神的理解の面からもそうである。

 

鈴木大拙は、一人の妙好人をも見逃さず、一人の禅道者をも見逃さず、その精神の奥儀を理解し、人々に解釈しえたではないか。


 この鈴木大拙にしても、また、西田幾多郎にしても、一宗一派を超えた文化創造者として、宗教界、思想界、哲学界に影響を与えつづけておられるのである。

 

 故に、代表的日本人として、改めて、鈴木大拙を深く学んでゆくことも有意義であると思う。そして、彼を一つの指標として、他の様々なものを計ってゆくこともまた肝要であると思うのである。

 

 

 

 

 

 

   by 天川貴之

(JDR総合研究所・代表)
 


 哲学的な議論というものには、様々な可能性の幅があるということを人類史は示している。

 

 例えば、ソクラテス、プラトン、アリストテレス等が「魂の不死性」について一定の見解を示した後であっても、エピクロスのような唯物論哲学が流行することもあり、それをさらに、キケロ等が再び論破するようなこともあるのである。


 そこにおいては、プラトンの「パイドン」の中で、一度、「想起説」等によって魂の不死性が結論づけられたように観えても、その後に、それに対して懐疑的な説が出てきて、全体として、様々に議論に幅を持たせているようなことともなっているのである。


 このように、「魂の不死性」という真理であっても、多様に分析することが可能であるということが、哲学の本来の深みであろうと思われる。けれども、ソクラテス、プラトンは、現代においても、新時代においても、新鮮であり続けるであろうと思う。


 このソクラテスやプラトンのような二千数百年も前の哲学者達の知的高峰の輝きが、恒星のように明るく照らして下さるおかげで、随分と永い間に渡り、人類は、ソクラテス、プラトンを通じて、魂の不死性とイデア(理念)的実在のあり方を考察することが出来たと思われる。


 このように、ありのままの真理真実というものが、文学的、哲学的高みをもって語られる時、本来、秘教的真理でしかなかったようなものも、そこにおいては、普遍的真理として、哲学、思想、芸術の中に、知的廉直と論理的弁証と思索的生産性を伴って、深い説得性をもって語られているのである。


 人類が、共通の知的遺産として、その価値を普遍的永遠的に認識しているプラトンの中に、人生の根源的な探究ともいえる、人間はどこから来てどこへ行くのかという切実な問いかけが述べられていることは、そこに一つの公正な正解の恒星を観るような想いである。


 まさしく、「善のイデア」そのものがそこに示されているのではないだろうか。プラトンは、近代のカントが本心において持っていた内容と同じ真理をその内心において持っていたものと思われるし、この近代哲学のカント、ヘーゲルを経てもなお、未だに新鮮で普遍的な問いかけを与えつづけているのである。


 それはまさしく、人類史を貫く王道そのものの真理なのであろう。

 

 

 

 

 

 

 

   by 天川貴之

(JDR総合研究所・代表)

 


 


 見聞を広めるということは大切なことである。時には、今の自分にはない発想を積極的に取り入れてゆくことも、何か少し違う運命を創ってゆくために必要なのである。

 

 であるから、たとえば哲学が好きな人であっても、だからこそ、週に一度ぐらいは、積極的に政治経済の見聞を広めてみるといったこともよいのである。


 一見、無駄にみえることの中にも、道があるのである。政治経済、天下の大計といえば、実生活を離れていて、あまりにも余裕がないという方もおられるであろう。

 

 しかし、天下国家のために考えたことは決して無駄にはならないのである。その志自体が尊いのである。その中には、実を結ぶものもあれば、実を結ばないものもあるであろう。しかし、天下国家のために、自己の思想を用いたこと自体が志士なのである。


 天下国家のために、ささやかでもよいから、自分の時間を割いておくということは、本当に今の時代であるからこそ、一人一人が積極的に心がけなければならないのである。

 

 理想に燃えるという時間を、人生の中に発見出来る方は幸いである。その方は天道を知るであろう。天の摂理に救われるであろう。


 天下国家のために自己の才能の一部を積極的に使っておくことである。もちろん、哲学も宗教も大切である。それに重点を置くことはよいけれども、天下国家に志をもつことは忘れてはならない。

 

 ささやかな努力がささやかな果実を生むものであるのだ。人間は、自分のことだけ、家族のことだけを考えていてはならない天命があるのである。


 天命のために己が生命を使うという大志を見失ってはならない。自分自身の内の理想と情熱を見失ってはならない。

 

 大志は確実に人を動かすものなのである。理想と情熱を持続させることそのものが尊いものであるのである。

 

 心の中に熱いものを持っていることが、人格の条件の一つなのである。この短いようで長い人生の中で、何が遺るかといえば、天下国家のために、いかに情熱を無私に燃やしえたかということなのである。


 熱愛の志士の部分が、一人一人の心の奥底に確かに眠っているのである。しかし、それに点火しつづけないと、火は消えてしまう。一度炎が消えれば、再び点火しないといけない。

 

 それは、若い時だけに志士の情熱をもてばよいというものではない。大人になって、三十を超え、四十を超えても、さらに、それ故にこそ、志を持続させなくてはならないのである。

 

 

 

 

 

  by 天川貴之

(JDR総合研究所・代表)