文学者としての自己の魂と精神を磨きつづけてゆくということは大切である。例えば、旅をしながら綴られた紀行文のエッセイも、立派な文学たりうるのである。


 旅行を通じて現場を知り、土地勘が出来ると、その世界文学も、より一層、理解しやすくなるのである。

 

 故に、日本国中を、世界中を旅しながら、紀行文学に親しんでゆけばよいのである。紀行文を味読してゆけばよいのである。


 やはり、和辻哲郎も説いたように、風土というものはあり、その風土によって、生まれる文学にも個性の違いというものがあるのである。


 例えば、ゲーテの『イタリア紀行』が古代ローマ帝国の哲人皇帝マルクス・アウレリウス的であるとすれば、同じく、ゲーテの『スイス紀行』はルソー的であると言えるかもしれない。

 

 両者とも精神界の巨人であるけれども、この日本国の精神史にも深く影響を与えつづけていることも確かであろう。


 ゲーテ文学全集であっても、くり返し味わって読み返せば、魂の糧、精神の糧が無限にあるものである。

 

 このように、世界文学の中で自らの魂と精神と身体を遊ばせてゆくということは、人生の楽しみであると共に、自己の境涯を高めることにもなるであろう。


 真なる教養小説、教養随筆というものは、普通の娯楽小説とは違った輝きを放っているものである。何回も読み返せば読み返す程に、魂と精神の糧が得られるものである。そこには、深い哲学的思索が、その背景にあるものなのである。


 このように、本来、哲学なしには、世界文学はありえないのである。そこに深い理性的思索なくして、ただの感性的情緒ばかりでは、本来、世界文学は成り立ちえないものなのである。

 

 

 

 

 

 

 

  by 天川貴之

(JDR総合研究所・代表)