肺がん末期、余命宣告も通過、
推移展開している患者でも
その日々は忙しい。
一番の楽しみは
散歩に連れて行ってもらって、
近所の大学キャンパス内を
ウロチョロしている時間。
咲き誇る草花に感嘆感銘を受け、
たまに陽を浴びるのも
なんとも至福を味わえるようです。
僕は居宅療養を選択しているので、
シーツ交換も毎朝の日課となり、
毎朝飽きもせず介護ベッドのコントローラーで
遊ぶ不謹慎者も出現しています。
掃除機をかける人、拭き掃除をする人等々、
居宅は狭いので、それぞれがそれぞれの
作業をしながら会話も盛り上がる。
散歩を楽しみ、自宅でも楽しみ、
楽しいことだらけに見える末期がん患者の
余命通過過程ではありますが、
ただ一つだけ、不安不満というか、
不平不満というのか、ストレスと
思われることは僕が肺がん末期で
余命宣告通過過程にあるという事実で
あるようにも思われなくもないのです。
「キリスト教徒はこのナタンの予言がダビデの家系に生まれるイエスが神の子であり永遠の王国をうちたてることを示していたと解釈する。」
(「キリスト教入門」講談社学術文庫)
我々は現在キリスト教なる宗教を
判断するにあたって、キリスト教すなわち
旧約聖書と新約聖書をもとに、
鑑定、鑑識、分析を試みています。
我々は現在キリスト教なる宗教を
解釈するために現在、
モーセ五書の鑑識を経て、モーセ五書に
続くと解釈されているヨシュア記ならびに
士師記、サムエル記、列王記を
鑑定しているわけですが、
このモーセ五書以降の「予言者の書(記)」
と称される書物の鑑定が実に難しい。
難しい以前にこれらの書物の信憑性、
これらの書物の存在そのものを
僕は疑っています。
存在そのものは受け入れるとしても、
その位置づけというか時代性、歴史性自体が、
非情に曖昧で信憑性に欠けると
僕は分析しています。
「歴史上の人物を神格化しないで人間的弱さを認めていくのは、神のみを絶対者とする一神教にふさわしいと言えるだろう。」
(「キリスト教入門」講談社学術文庫)
聖書そのものがキリスト教徒の
基本であるとするのなら、
聖書そのものも曖昧であるから
キリスト教徒も曖昧であるという結論に
結び付けられるとは思われません。
しかしながら聖書のなかでも
旧約聖書は信憑性もあり、
ユダヤ人、ユダヤ教徒、イスラエルという国、
イスラエルそのものも事実として
受け入れられないという人は
少ないようにも思われます。
歴史上の人物を神格化しないで
弱和を認めていくのが一神教に
相応しいのかどうかはわかりません。
というのも、歴史上の人物に限らず、
人間は弱い者であり、
神格化する必要もなく、
それを云々するのが一神教に
相応しいのかどうかまで議論するのも、
あまりにも飛躍した理論であると
言わざるを得ないような気もしないでもないのです。
「『歴代誌』は、『サムエル記』上巻から『列王記』下巻にかけて書かれている歴史を別の視点からたどった書物だ。内容的には重複している。」
(「キリスト教入門」講談社学術文庫)
旧約聖書なり新約聖書は、
そもそもどこのだれが書いたのかが、
明らかにされてはいない。
占い師いや呪術師もとい予言者および
予言者と時の権力者または統率者の命により、
その周辺の人が記したとされる説が
最も有力であるような気も
しないでもないのです。
挙句の果てに旧約聖書の扱いも、
ユダヤ教徒と、キリスト教徒と、
そのまたキリスト教徒の中の、
正教徒、カソリック、プロテスタントでは
その扱いに大きく違いが出てきているというのが、
現状であるような気もしないでもないのです。
その意味でも歴代誌は、ユダヤ教徒の
旧約聖書のみに存在する書籍というのも
頷けるようなそうでもないようなのかも知れません。
歴代誌がユダヤ教徒の旧約聖書
のみに存在するということは、
この歴代誌こそ、新約聖書にはない
この歴代誌こそ、新約聖書にとっては
都合の悪い内容が含まれていて、しかも、
その内容は自分たちの旧約聖書をも俯瞰し、
冷静な視線で真実に近い内容が
記されているとも考えられるのです。
「予言者エズラが書いたとも言われている。」
(「キリスト教入門」講談社学術文庫)