自民総裁選の行方よりも、
台風の動きのほうがよっぽど
気になる今日この頃ではあるようです。
政治家の利権、かけひき云々、
すべった転んだ提灯だなどという腐れ話などよりは、
自然の脅威である台風のほうがよっぽど、
真剣味も真実味もあり、倫理摂理にもかない、
なんなら人間性も感じられたり感じられなかったり、
そもそも台風は自然であって、
人間でさえないけれど、
それでも人間として生きる政治家よりは、
人間ではない台風のほうに、
より信頼というか信じられるというか、
少なくとも人間的に正直であるような、
そもそも台風は人間ではないけれど、
自民総裁選よりは台風のほうがなんだか、
親しみをもてるというか、
信頼できる人間同士として、
そもそも台風は人間ではないけれど、
政治家よりは嘘偽りもなく、
虚偽も虚構もあり得ないという点において、
そもそも台風は人間ではないけれど、
政治家よりは自然摂理にかなった
生き方をしているとも思われなくもないのです。
「各人の価値は各人が熱心に追い求めてきたものの価値に等しい。」
(マルクス・アウレリウス「自省録」)
モノを追い求めている人は、
たかがモノ、自然の脅威からしたら
どうでもいいようなモノ、自然の中にあっては、
あってもなくてもよいモノの価値に等しい。
おカネを追い求めている人は、
宇宙の中にあっても、自然の中にあっても、
あってもなくてもよいおカネの価値に等しい。
同じようなことが、各人に
いえるのかも知れません。
おカネが純粋で
美しいものであると思う人は少なく、
おカネが醜く、
卑俗なものであると思う人が多いのなら、
それを追い求める人も、
そのなりの価値であると、
考えられても思われても仕方もやり方も
ないようにも思われなくもないのです。
「人間の観照と思惟を振り分けるのに宇宙全体でも十分ではなく、人間の創意はしばしば人間を取り囲んでいるものの限界を超えてしまう。」
(ロンギノス「崇高」京都大学学術出版会)
人間とは何かとか、個と集合、
生と死と人生とはとか、
人間が人間の内部を深く見つめ直すと、
それは宇宙全体の概念、真理を
追い求めるだけでも、すべてではなく、
人間の創造性、思考は、ときとして、
人間の現状を飛び越え、
果てしなく悠久の世界へと
飛翔してゆけるものであるとも
考えられなくもないのです。
「虐げられた者を見ると応援したくなるのが、人間の変わらぬ人情なのである。」
(ポリュピオス「歴史」)
搾取されている者を
応援したくなるのが
人間の変わらぬ人情であるのなら、
搾取する側の人間になったり、
搾取する側の人間になろうとする人は、
人間として人情の薄い人、
人間としての人情を失ってしまった人、
人情が人間の特性であるのなら、
人情を失ってしまった人は、もはや
人間でさえないと思われても言われても、
いたしかたもないものであるのかとも
考えられなくもないような気も
しないでもないのかも知れません。