余命宣告を受けて1か月以上が
過ぎ去ろうとしています。
余命2~3か月~9~10か月という至極
曖昧な宣告ではあったけれど、
相変わらず、アタリマエにジジィ特有の
持病からくる痛みはそのままだし、
あえていえば痛みも疲れも
徐々に徐々にではあるけれど
増幅されているという自覚は
あるようでないようで、相変わらず、
精神的には至極元気で、自らは、
明朗活発、清廉潔白、横断歩道、支離滅裂などという
何だか本人にもわけわからぬただの四文字熟語を、
ただ単に並べ立てているだけのような毎日を
送りまくっているようにも思われます。
「哲学は、知をみずから外に置いたまま経験を先取りし、それを計算可能なもの、客観的なものに変えてゆこうとする学問である。」
(〈非在〉のエティカ/東京大学出版会)
哲学を学び続けるということは、
悲しみや不安、苦悩や逆境を先取りし、
それを計算可能なものとして、
客観的、論理的、俯瞰的にとらえ、
平静な心で安寧な日常を送ることも
可能とすることができる
ということのような気もしないでもないのです。
「いっぽう経験は、なにかに巻き込まれて、なにかをこうむるという受動的なものであるから、そうして先取りや計算や客観化には収まらない過剰さや個々の偶然性を抱えるものであって、単なる知からはあふれ出てしまう。」
(〈非在〉のエティカ/東京大学出版会)
我々の日常は、たんなる我々の
知識レベルでは収まらない偶然性と
非合理性、理不尽さに溢れているようです。
この状況を、アタリマエの知識と経験だけで
乗り切ろうとするほうが無茶であり、
この状況をうまく乗り切るためには、
アタリマエの知と経験を超えた哲学という
叡智が必須となってくるような
気もしないでもないのです。
「日常のあらゆる機会と場所において、今日ほど思考を必要とする時代もない。」
(〈非在〉のエティカ/東京大学出版会)
それなのに社会は、
とりわけ日本においては、
この、思考するという情動が、
おろそかにされている時代も
ないものであるとも思われなくもないのです。
現に、日本最高峰といわれている東京大学でさえ、
かつては世界有数の大学であったのに、
今日では世界100位にも選ばれない大学に
成り下がってしまっているという現実が、
それを物語っているとも考えられます。
「驚きこそ哲学のはじまりにほかならない。」
(〈非在〉のエティカ/東京大学出版会)
信じられない事態、驚くような他者の対応、
驚きの事態、あまりの理不尽に驚く、等々の
状況において洞察、分析することが、
哲学のはじまりであるようです。
「哲学のはじまりを語るギリシャ語の原文のなかには〈パトス〉(被(こうむ)る、受動、受苦)という言葉が実に多く含まれている。」
(〈非在〉のエティカ/東京大学出版会)