ミシェル公53(了) | コラム・インテリジェンス

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透き通るような…心が…ほしい

明日 天気に なぁれ。

 

明日もいつでも、温暖な

晴天であってほしいとも思われます。

 

なんだかんだといってみたところで、

我々の心身は天候に左右されるようです。

 

思えば我々は昨年の冬以降から、

寒暖差、気候変動などの影響を受け、

おちついて春を楽しむ時期も少なく、

 

我々は共に我々なりの苦難の季節を

乗り切ってきたようにも思われます。

 

これからの季節はしばらくのあいだ、

梅雨をも乗り切れば、

 

我々にとってはいくらか温暖で

楽ちんになれる季節であるのかも知れません。

 

明日が楽しみになるよう、

明日を楽しめるように、

今日を楽しみ、この季節を

楽しみたいとも願っています。

 

「ソクラテスは肉体的快楽を正当に評価する。」

(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ))

 

ココの読者はもうすでに御存知のとおり、

ソクラテスに限らず、肉体的快楽を

良とする哲学者は多いようです。

 

人間は自然の一部であり、

肉体的快楽も自然の一部であるのだから、

 

哲学者であるソクラテス等が、

それを肯定するのもアタリマエといえば、

しごくアタリマエのことかとも思われます

 

「自然はやさしい、そして自然は賢明で公正な案内者である。」

(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ))

 

自然はアタリマエ、天地・山海・谷川、

晴雨・寒暖も自然のアタリマエであるのなら、

 

自然は我々にとってやさしく、賢明で公正な

案内者であると、アタリマエに受け入れ、

 

アタリマエをアタリマエとして

対応してゆくのが我々にとっての

肝要であるような気もしないでもないのです。

 

「もっとも美しい生活とは、普通の、人間らしい模範に合った、秩序である。」

(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ))

 

人間らしい模範は、

自然の人間らしい自然な人間の模範に合った

規則正しさであるのかも知れません。

 

模範という言葉も態度も好きではないけど、

模範が美しく楽ちんであるのなら、

それもまた好しとするべきでもある

という気もしないでもないのです。

 

そしてアタリマエの、人間らしい生き方が、

普通の規則正しい、普通の生活であったり、

なかったりもしているのかとも考えられます。

 

「ところで老人は少しばかりやさしく取り扱ってもらわなければならない。アポロンの神よ、どうか、私が、手にした幸福を、身も心も壮健で享受できますように。そしてすべての楽しみを奪われませんように。」

(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ))