読書とは、その本の作者と、
直接マンツー・マンで、
対話し続けることであるようです。
人生とは、いかに多くの人の、
思考をマンツー・マンで、
学習できているのかどうかで、
その重みも判断も、その清らかさも、
その飛翔も大胆な決断も、その高貴な輝きさえも、
身に付けていられるのかどうかの、
表象であるのかとも
思われなくもないのかも知れません。
「私は自分の判断を信用しない。私の判断は他の多くの昔の智者の権威ある判断に反対するほど馬鹿ではない。彼らとならば一緒に間違っても満足だとさえ思っている。」
(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ)
古(いにしえ)の智者の著作を、
何千何万冊も読んでいるわけでもないのに、
自分の判断に疑いを持てぬ男は、
信用できないということなのかも知れません。
「その清らかさは澄み切った流れのようだ。」
(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ)
いにしえの賢者・哲学者たちは、
常に人間の本質を追求し続けていたものだから、
その思考の清らかさは、
まるで澄み切った水の流れのように、
美しくも儚いものであったようです。
「彼はほんのわずかだけ飛んでみる。」
(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ)
いにしえの賢者・哲人たちは、
真理・万理の奥深さ、際限のなさを
知り尽くしていたために、
己の小ささ、儚さを思い、
ほんのわずかづつしか飛翔せぬよう
心がけていたようにも思われます。
現代人は、ITだかAIだかの進歩に、
おごり高ぶり依存し、
イッキに飛翔しようとする愚かさを
身に付けてしまっているようにも
思われてならないのです。
「我々は、これらの波浪を不動不屈の大胆不敵さでもって支えるであろう。あたかも、巨大な岩石が、雄叫びをあげながら押し寄せてくる荒波を全身で受け止めてあたりに砕き散らすように。」
(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ)
我々が、
大いなる自然に対する
畏怖と認識を怠ることなく、
その現象とその要因をも含めて、
神として崇め続け、そして、
我々が、
知識と理性、論理倫理を
探求し続け、
それを最高善として心技、
心身のうちに蓄え続けるならば、
我々は、
どのような人生の荒波をも全身で受け止め、
それらをことごとく、
砕き散らす勢いのある、
清廉潔白、確固たる自信に満ちた、
人生を貫けるであろう
ということなのかも知れません。
「我々のいたるところ、我々から出るすべてのものが、我々の言葉と行為によって、この高貴なる輝きに照らされるであろう。」
(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ)