視聴覚障害者の
目印である白杖をついて
横断歩道を渡っている老女の前を
強引に割り込み、
自らが横断歩道を渡る男女。
さらには信号無視をして、
その老女の前をギリギリに横切って、
通過していく自転車を目にします。
僕は過去に不起訴にはなったけど、
傷害事件の当事者に
されてしまった経験があり、
その時に留置所で、持病の薬さえ
飲ませてもらえなかった経緯があり、
それでなくとも武道有段者は、
正当防衛でも相手にけがをさせれば、
裁判官が先入観を持つ危険もあるので、
自分自身の憶病さに苛まれながらも、
その場で無礼者たちを
成敗することができませんでした。
それでもこの国の、
マナーやルール、礼儀作法の乱れには、
今更ながらに勝手に呆れ、悲しみを
覚えてしまったのでした。
「たいていの小さな子供たちがかわいらしいのは、彼らがまだ自然が与えてくれた風貌と態度に閉じ込められており、別の風貌や態度をまったく知らないからである。」
(「箴言」ラ・ロシュフコー公爵フランソワ6世)
純真無垢な
美しさであったり、
純真無垢ゆえの崇高さ
ということなのかも知れません。
そしてその純真無垢を失わずに、
誠意と志の心を
磨いていくことこそ、
肝要であるのかとも思われるのです。
「子供時代が終わると、彼らはそれを取り換え、台無しにしてしまう。ほかの人がやっていることを見て、それを真似しないといけないと思うが、完璧に真似ることは不可能である。そうした模倣には、つねに何かしら不自然なところ、おぼつかないところがある。」
(「箴言」ラ・ロシュフコー公爵フランソワ6世)
このような状態のオトナが、
増え続けているように考えます。
自己を見つめ、自分の内面と向き合い、
自分独自の自分磨きに
切磋琢磨、自己研鑽することこそ、
美なるもの、真なるもの、幸なるものへの、
正しい道であるとも考えられるのです。
「彼らの態度や感情には、しっかり定まったところがまったくない。」
(「箴言」ラ・ロシュフコー公爵フランソワ6世)
このようなオトナも、
増え続けているようにも思われます。
その結果、うわべだけの無責任な男が、
増え続けてしまっているようにも
見受けられなくもないのです。
「じっさい彼らは、自分がそう見られたいと思うとおりになるどころか、本当の自分ではない者に見られようと努めているのだ。誰もが別人になりたい、自分ではなくなりたいと思っている。彼らは自分のそれとは別の風貌、別の才気を探し求める。」
(「箴言」ラ・ロシュフコー公爵フランソワ6世)
自分を真からいたわる、
自分を真から好きになれる人が、
少なくなっているのかも知れません。
己を真から好きになるということは、
己の誠、己の志をしっかりと持つこと、
その誠、その志を矜持として、
そこに向かって常に自己研鑽、
己を磨き続けることこそ、
肝要であるとも考えられます。
「他人の口調や物腰をいきあたりばったりに取り入れ、ある人に相応しいことでも、すべての人に相応しいとはかぎらないこと、口調にも物腰にも一般規則はないこと、よい模範というものはあり得ないことを考えもせずに、それを我が身に実験しているのだ。」
(「箴言」ラ・ロシュフコー公爵フランソワ6世)