オジンが、
ジジィが、
ピチピチノの
スポーツ・ウェアに身を包み、
ハァハァ汚い息を吐き散らし、
ジョギングしている姿は、
この世にこれほどミテクレも
心魂も醜いものがあろうか
というほどの勢いで
その醜態を我々に
見せつけてくるようです。
いつまで若くいたいのか、
いつまでのうのうと
生き続けたいのか、
なんだか未練の
塊でしかないとも
思われなくもないようにも
考えられるような
気もしないでもない
のかも知れません。
「なにゆえ、自分の力の衰えを感じている老いぼれた人にとって、緩慢な枯渇と解体とを待ち受けるほうが、完全な意識をもってそれを打ち切りにするよりも褒められるべきというのであるか?」
(「人間的、あまりに人間的」ニーチェ)
ニーチェの
言いたいことは
よくわかるようにも
思われますが、
さすがに
ニーチェの独善的、
反キリスト的
死生観が露呈
しているようにも
思われます。
「自殺は、まったく自然な自明の行為であり、理性の勝利として当然畏敬の念を呼び覚ますべきであろうし、また呼び覚ましてもきた、ギリシア哲学の指導者たちや最も勇敢なローマの軍人たちが自殺によって死ぬのを常としていたあの時代には。」
(「人間的、あまりに人間的」ニーチェ)
自殺推奨ではないけれど、
ジジィの
「俺も昔はワルだった」
などという虚栄や虚勢、
ウソやハッタリなどには、
もうウンザリしているし、
運動神経もないジジィが、
オトナになってゴルフを始め、
それをさもスポーツの如くに
語る姿も生意気だし、
なにしろ、
青少年期に
たいしたことなかったヤツが、
ジジィになって
いきがっている姿には、
ほとほと嫌気がさしているのです。
だからといって、
ニーチェのように、
独善的に自死を、
あるいは正と死を
軽々しくも
断罪するような思考は、
僕にはとうてい
ついていけないような
気もしないでもないのです。
「これに反して、本来的な生の目標にさらに近づく力もないのに、医者のこせこせした忠告やこの上なく厄介で醜い暮らし方でもって一日一日を生き延びようとする病的欲望は、ずっと尊敬できないものである。
宗教は自殺の欲求に対する逃げ口上を沢山もっている。それによって宗教は、生きることに惚れ込んでいる人々のところにうまく忍び寄り取り入るのである。」
(「人間的、あまりに人間的」ニーチェ)