人類の、
哲学・芸術・文学が開花した、
共和制民主国家としての、
フランスが好きで、
ロジェ・ポル・ドロワもココに
とり上げさせて頂きましたが、
ココの読者にとっては、
ドロワの話す内容が、
どれも当コラムで
扱ってきた哲人たち関連の
論理哲学であったりで、
いささか食傷ぎみのかたも、
いらっしゃったかとも思われます。
さあ、いよいよ、そこで最終稿です、
お疲れ様でした。
「この蜃気楼の世界には名前がある。その名を哲学という。
哲学とは、当惑と深刻な袋小路、壮大で深淵なだまし絵のような宇宙。」
(「歩行する哲学」ロジェ=ポル・ドロワ)
ウィトゲンシュタインです。
ウィトゲンシュタインにとっての哲学とは、
我々が言葉の使い方と、言語の性質を
理解していないことから
生まれている誤謬であるとドロワも
解釈するに至ったようです。
「これは娯楽ではなく実験である。
精神の行程であり、知的発見である。
その目的は、
可動性や柔軟性を、私たちの言語思考における陳述に参加させることにある。」
(「歩行する哲学」ロジェ=ポル・ドロワ)
哲学する、ということは、
我々が言葉により思考する内容に、
可動性や柔軟性を与えてくれる
ということに他ならないのかも知れません。
凝り固まった
思考から解放され、
さらには論理的に正であり、
失敗する確率の最も低い、
成功確率の最も高い手段を
選択させてくれる
というオマケが
ついてくるようです。
「これは一年では、いや一生でも終わらない。
ウィトゲンシュタインという学識豊かで注意深い未開人は、そのことを完璧に考えに入れていた。」
(「歩行する哲学」ロジェ=ポル・ドロワ)
並の哲学者ではない、
並の論理学者でもない、
ウィトゲンシュタインであればこそ、
それは当然のことであった
かとも考えられます。
「日常言語は、人間という有機体の一部であり、他の部分に劣らず複雑である。」
(「論理哲学論考」ウィトゲンシュタイン)
「ウィトゲンシュタイン9」
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12719143813.html
言葉をうまく
操ることのできない男は、
人の心もうまく、
理解することができない。
いや、
言葉を上手く
操ることのできない男は、
人の心を理解しようとする意識さえ、
薄れているのかも知れません。
「ウィトゲンシュタインの後にはもう哲学者はいなかったのだろうか?」もちろんいる。それでもウィトゲンシュタインは、哲学者の最期の人である。なぜなら、哲学の外へ向かって歩こうといたから。彼の夢は哲学を清算すること、哲学を追い越すことだった。そうやってついに自由に歩くことだった。」
(「歩行する哲学」ロジェ=ポル・ドロワ)