曙光(しょこう) 7 | コラム・インテリジェンス

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透き通るような心が…ほしい…。

 かつては、

 高額偽壺の押し売り、

 霊感商法等の問題をもみ消し、

 近年では

 女性ジャーナリスト強姦魔を

 逮捕から守り、

 自由の身とさせてしまった総理が、

 銃撃されて、

 いまや、ようやく、

 旧統一教会問題は、ふたたび、

 取り上げられるようになりました。

 

 愚か者たちが

 民主主義を悪用すれば、

 何が正義で何が悪なのかさえ、

 わからぬ世の中が

 できあがるようです。

 

「力の感情のための処方というものがある。第一は、自制することができ、力を自制することによって、すでにある力の感情に精通できているひと。

 第二は、まさにその感情が欠如している人々。欠如しているから精通も出来ぬ人々。

 第一はバラモン教が担当して、第二の種類の人々にはキリスト教がはりついてくる。」

(「曙光」ニーチェ)

 

 自制ということを知り、

 それによってある種の力を

 身に付け精通できる者は、

 バラモン教で十分に満足できる。

 

 が、しかし、

 自制することの難しい人、

 だからその感情にも精通できず、

 戸惑ってしまっている人々、

 彼らをニーチェは、

 キリスト教が操ってでもいるかと

 考えていた時期もあったようです。

 

 僕も同じように

 感じていた時期があります。

 

 だからキリスト教の教義自体、

 信者の方々には好意を感じてもいるのですが、

 かれらを操るイエス・キリストおよび牧師、

 教皇だとか神父等々、そのとりまきには

 悪意のようなものを感じてしまう時もありました。

 

「道徳的であるということは、道徳的であるからではない。

 道徳に服従するということは、君主に服従することと同じように、思い上がりであり、利己心でもあり、諦めとも言い、陰惨な熱狂とでも、無思慮とも、絶望の行為でもあり、それ自体としては、それは道徳的なものではない。」

(「曙光」ニーチェ)

 

 まったくもって、

 道徳的であるということは、

 女性の場合であるのなら、

 それはしなやかさであり、

 戦略でもあり美徳でもあるけれど、

 

 男性の場合であれば、

 道徳的であるということは、

 卑屈であり、狡賢く、醜劣であり、

 絶望的であるとさえ

 論じられるのかも知れません。

 

「そしてこの全くの愚行の背後には、善と悪は我々によって測られるから、我々自身が善の原理でなければならないという、あらゆる底意の中で最も法外な底意が座を占めている。」

(「曙光」ニーチェ)

 

 底意(そこい)とは

 “したごころ”

 心の奥底に潜む悪意。