かつては、
高額偽壺の押し売り、
霊感商法等の問題をもみ消し、
近年では
女性ジャーナリスト強姦魔を
逮捕から守り、
自由の身とさせてしまった総理が、
銃撃されて、
いまや、ようやく、
旧統一教会問題は、ふたたび、
取り上げられるようになりました。
愚か者たちが
民主主義を悪用すれば、
何が正義で何が悪なのかさえ、
わからぬ世の中が
できあがるようです。
「力の感情のための処方というものがある。第一は、自制することができ、力を自制することによって、すでにある力の感情に精通できているひと。
第二は、まさにその感情が欠如している人々。欠如しているから精通も出来ぬ人々。
第一はバラモン教が担当して、第二の種類の人々にはキリスト教がはりついてくる。」
(「曙光」ニーチェ)
自制ということを知り、
それによってある種の力を
身に付け精通できる者は、
バラモン教で十分に満足できる。
が、しかし、
自制することの難しい人、
だからその感情にも精通できず、
戸惑ってしまっている人々、
彼らをニーチェは、
キリスト教が操ってでもいるかと
考えていた時期もあったようです。
僕も同じように
感じていた時期があります。
だからキリスト教の教義自体、
信者の方々には好意を感じてもいるのですが、
かれらを操るイエス・キリストおよび牧師、
教皇だとか神父等々、そのとりまきには
悪意のようなものを感じてしまう時もありました。
「道徳的であるということは、道徳的であるからではない。
道徳に服従するということは、君主に服従することと同じように、思い上がりであり、利己心でもあり、諦めとも言い、陰惨な熱狂とでも、無思慮とも、絶望の行為でもあり、それ自体としては、それは道徳的なものではない。」
(「曙光」ニーチェ)
まったくもって、
道徳的であるということは、
女性の場合であるのなら、
それはしなやかさであり、
戦略でもあり美徳でもあるけれど、
男性の場合であれば、
道徳的であるということは、
卑屈であり、狡賢く、醜劣であり、
絶望的であるとさえ
論じられるのかも知れません。
「そしてこの全くの愚行の背後には、善と悪は我々によって測られるから、我々自身が善の原理でなければならないという、あらゆる底意の中で最も法外な底意が座を占めている。」
(「曙光」ニーチェ)
底意(そこい)とは
“したごころ”
心の奥底に潜む悪意。