梅雨の時期にはかならず、
つゆ草の古名である月草を思い、
梅雨草から万葉集の
月草を使った歌を
思い浮かべてしまうのです。
「朝(あした)咲き 夕べは消(け)ぬる 月草の
消ぬべき恋も 我(あ)れはするかも」
(「万葉集」作者不詳)
朝に咲いては夕方に萎んでしまう露草。
私の恋も切なくて、切なくて。
身も心も消え果ててしまいそうな気持ちです。
「世界史においては、偉大な哲学者たちとともにようやく本来の意味での偉大さの領域、すなわち唯一無二であって余人をもって代えがたいという領域、並外れた活力と、普遍的なものに関連しているというあの領域が現れ始める。」
(「世界史的考察」ヤーコブ・ブルクハルト)
哲学なき政治、学問等々は
すべて無に帰するという思考は、
デカルトの「哲学の木」の思想と
合致するものかとも思われます。
哲学の木の枝葉で成り立っている」
(「方法序説」デカルト)
「ウィトゲンシュタイン12」
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12723142750.html
哲学がなければ、
歴史の可否も、言葉の定義も、
情動の概念も、
何一つ決定することが
難しくなるのかとも思われます。
「彼ら哲学者たちは生存の大きな謎の答えを、それぞれ自分流に、人類にいちだんと深く理解させる。彼らの思惟の対象は、そのすべての側面から観た世界全体である、ちなみに、人間もそこに含まれている。」
(「世界史的考察」ヤーコブ・ブルクハルト)
モンテーニュはモンテーニュ流に、
ウィトゲンシュタインは彼なりに、
デカルトはデカルト流に、
ではあるけれど、
それぞれが、それぞれに共通しているのは、
彼らがすべて全員が、
我々に世界を、歴史を、人間を、
いちだんと深く理解させてくれる
ということなのかも知れません。
「彼ら哲学者たちだけが全体に対する個の関係を通観し、かつこれに精通している。
それゆえに個々の学術に方向と展望を指し示すことができるのである。」
(「世界史的考察」ヤーコブ・ブルクハルト)
哲学なき智恵は、
役に立たないどころか、
ときとして、
害悪となる場合もあるのかも知れません。
「すべての学問は
哲学の木の枝葉で成り立っている」
(「方法序説」デカルト)
「ウィトゲンシュタイン12」
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12723142750.html
はじめに哲学ありき、
と考えられていたようです。
「無意識裡のことも、また不承不承ながらのこともしばしばあるとしても、哲学者たちの言葉に聞き耳がたてられる。
科学は、どのような結びつきによって自分たちが偉大な哲学者の思想に依存しているのか、まったく知らないことがたびたびある。」
(「世界史的考察」ヤーコブ・ブルクハルト)