ブルクハルト 6 | コラム・インテリジェンス

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透き通るような…心が…ほしい

 「朝生」というワードに

 反応してしまったら、

 「朝まで生テレビ」の略だそうでした。

 

 朝倉未来の天才性に

 着目妄信しているせいで、

 「朝」という漢字に異様に反応して

 しまっているのかも知れません。

 

 天才性とか偉大性、

 奇特性を最近では「神」とか

 表現する傾向にもあったようですが、

 

 真の天才、偉大、

 奇特な人物が

 評価されなくなる傾向と

 比例してしいるのかも知れません。

 

「世界史的に偉大なる人物を数え上げれば、我々は、偉大という概念が不確かであることを十分に承知する。

 我々は、自分たちの稀少性、散漫にして茫漠とした性状を出発点とする。

 偉大の偉大なるゆえんは、我々が偉大ではないというこの一点にある。草の中にいる甲虫には、どのみち小さな草花が非常に大きく見えると考えられる。

 これは甲虫がまさに甲虫にすぎないという理由からそうなのである。

 ただこの概念は相対的なもので、我々は絶対的概念に到達することを期待することはできない。」

(「世界史的考察」ヤーコブ・ブルクハルト)

 

 その男の尊敬する人物を知れば、

 その男の素状がわかるのかも知れません。

 

 僕が現存する人物で尊敬できる人は、

 僕の元上司であり、巨大企業の役員であり、

 その昔、僕を見出してくれた

 人事の神様と呼ばれた人物。

 

 それに養老孟子、

 野村恭也他数名の方々しか

 思い浮かべられません。

 

 現存する人物を

 偉大として評価するのは、

 

 現存という時間、同時代において、

 その人物に対して己の負けを

 自ら宣告してしまうような

 

 戦わずして負ける男の

 根性のなさが現れてしまっているようで、

 どうにも情けなく思われてしまうのかも知れません。

 

「さらにこれに加えて、ただ権力というものだけにおもねり、これを偉大であると申し立てる、目のくらんだ、もしくは直接買収された著作家等々の手になる、きわめて頻繁にそれが虚偽であるばかりか、不誠実でさえあると証明された文書による伝承がある。」

(「世界史的考察」ヤーコブ・ブルクハルト)

 

 偉大な人が評価されるのは、

 その周囲に彼におもねり、

 彼を喧伝することをビジネスにしている

 人々の存在も現存するようです。

 

 世間知らずな、

 社会の裏表も知らぬ男が、

 どこの馬の骨とも知らぬミュージシャン等々を、「偉大である」などと賞賛してしまう背景には、このような事情もないとは、けっして言い切れぬようにも思われなくもないのです。

 

「世界史的に、偉人とは、唯一無二、余人をもって代えがたいこと、という言葉がそれである。無論、そのことの真の証明は、かならずしも厳密にすることはできない。」

(「世界史的考察」ヤーコブ・ブルクハルト)