僕はよく、周囲の人々から、
「どこまでが冗談で、
どこまでが本気なのかがわかりにくい」
という御批判を浴びます。
で、ずうずうしくもおこがましいけれど、
こんな文章にも巡り合っていたのでした。
「したがって、唯一の困難は、『私は本気ですよ』と、時々こちらから変な念を押したりしなければならないのは、にもかかわらず、私の言い、書くことが、世の多くの人には何か寝言かそれに類するものに聞こえているらしいということにこそあって、いやこれには私はさんざん苦労してきた。むろん今も苦労している。」
(「考える日々」池田晶子)
レベルも品性も大違いではあるのだろうけど、
世の中には似たような境遇を感じたり
思ったりする人もいるものなのかと
いささか、いや、かなり恐縮しながらも
痛み入ったのでした。
「世の多くの人は、『哲学』というのを、自分が生きて世が存在するということとは何か別の、寝言かそれに類するものと、これはもうかなり根深く思い込んでいて、この思い込みの勘違いを粉砕するために、私はこれまで自分の全努力を傾注してきた。」
(「考える日々」池田晶子)
世の中の人は哲学を
寝言だとかどうであるとか考えることもなく、
いや、哲学ばかりか、自分の国の歴史も、
自分が生きている世界の歴史も、
自分が暮らしている地球の在り様さえ、
考えようともしないのではないかとさえ
思われるときもあります。
「私の努力の結果はどうあれ、しかし、ようやくここに来て世の人々、『哲学侮るべからず』と、気づき始めたのだろうか。情けない。率直なところ、私はそう思う。金融不安にでもならなけりゃ、普通はものを考えないのか。」
(「考える日々」池田晶子)
おっしゃるとおり。
世の人々はお金のことくらいしか
考えようともしないようです。
「ほら、言わんこっちゃない。というふうにも、私は感じる。もっと早く私の言うことを聞いていりゃ、ここまで悪くはならなかったものを。言うまでもないとは思うのだが、言っておかないと間違われることが多いので行っておくのだが、この場合の『私の言うこと』というのは、『池田某の言うこと』の意ではない。『哲学の言うこと』の意である。念のため。」
(「考える日々」池田晶子)
哲学の言うことというのは、
唯一無二無双、
哲学者で皇帝であるアウレリウスのことであり、
「アウレリウスの独り言 1」
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12547342403.html
「全ての学問は哲学の木から枝分かれする」
のデカルトであり、
「オカルト・デカルト・アラカルト」
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12534120809.html
「フィロソヒィカル・ソリューションズ10」
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12622421423.html
哲学のはじめと言われるゼノン
のことであるのかも知れません。
「ゼノン 31」