それぞれに事情はあるようです。
が、放火は最も卑劣な犯罪の一つで
卑怯な男もまた増え続けているのかも知れません。
今季一番の冷え込みに震えあがってはいるのですが、
凶悪な犯罪のニュースを見聞きすれば、
己の寒さどころの騒ぎでもなさそうだと
思わざるを得ぬような気もしないでもないのです。
「肉体が嘆き叫べば霊魂も嘆き叫ぶということは、自然学的に説明のつかないことではない。
飢えないこと、渇かないこと、寒くないこと、これらが肉体の嘆きと叫びである。
これらの叫びを抑えることは、霊魂にとっても精神においても難しいことである。
のみならず、霊魂それ自身が日ごとに自己充足と精神の安定を得られるようになっているからといって、霊魂・精神に訴える自然の声を無視して強行するようなことは、霊魂・精神にとって、非常に危険なことであるからである。」
(「西洋古典叢書断片集/エピクロス」京都大学学術出版会)
ストイックの語源は御存じストア哲学。
エピクロスはストア哲学の「足りるを知る」
は同意していても、ストア派のような禁欲とか、自分を律しすぎることには危惧を感じていたようです。
欧米等英語圏ではストイックの反対語はエピキュリアンがアタリマエですけど、わが国ではそのような会話さえ、僕自身が仕掛けた場合を除き、聞いたことも見たこともない。
僕もストア派哲学の「自分を律する」点はおおいに賛同しているし、「足るを知る」という点ではもっとおおいに賛同しているのだけど、
ただ、「自分を律する」においては、一つ間違えば「己の思考に捉われてしまう」という恐れもあるし、また、「偏狭なる視野と思考」に陥る危険もあるような気もしていたのです。
思えばこららの思考は、僕の洞察ではなく、僕の中に眠っていたエピクロスの思想が蘇ってきていただけなのかも知れません。
なので僕はどちらかといえば、ストア派ではなく、エピキュリアンである可能性もおおいにあり得るのかとも思われなくもないのです。
「私は踊るときは踊るし、眠るときは眠るのだ」
(モンテーニュ「エセー」)
「モンテーニュの『中庸』」
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-11878826093.html
「虚しい臆見には従わず、自然に従う人は、すべてのことにおいて自己充足できる。
なぜなら、自然において十分なものに関しては、それを手に入れれば、それ自体が富であるが、際限のない欲求に関しては、最大の富でさえ、実はその人にとっては富ではなく貧なのであるから。」
(「西洋古典叢書断片集/エピクロス」京都大学学術出版会)
自然界を見渡せば、
衣食住足りて尚且、不平不満不安を吐露するのは
人間だけであるように思われます。
これはアタリマエに我々が花とか虫と言語によるコミュニケーションを摂ることができぬからというだけでもなく、実際に虫とか花とかトラとかウサギと話せたとしても、彼等から我々が愚痴るような話がでてくるとは思えないからなのです。
衣食住足りていれば完璧であり、
それは感謝の対象であり満足と幸福の対象とも成り得る。
それでも「もっと」という人は、
財が富んでも心が貧のままの人であると思われます。
「君が途方に暮れ、苦悩しているのは、君が自然の摂理・倫理・論理を忘却しているからである。
というのは、君は自分でわざわざ不確定な不安と恐怖と欲望を作り出しているだけなのだから。」
(「西洋古典叢書断片集/エピクロス」京都大学学術出版会)