「知者は、発覚されないであろうことを知った場合、法の禁じるところを行うことがあるであろうか?端的な回答は容易ではない。」
(「西洋古典叢書断片集/エピクロス」京都大学学術出版会)
知者の考えを
読み取ろうとすること自体が傲慢である。
知者の思考と行動は、
法にも、ましてや凡夫の理解できないのがアタリマエ、
であるから端的な解答を導き出すことは
けっして容易なことではない、ということのようです。
「性交が人を益することはない。が、もしそれが何ら害を加えなかったならば、それだけで足れりとすべきである。」
(「西洋古典叢書断片集/エピクロス」京都大学学術出版会)
まさにプラトンのイデア論にはエピクロスも
大いに賛同しているようですね。
「我、ここに女神アフロディティの神託を告げる。
女神はこのように述べられた。
『知の豊富な者が知の貧しき者に知を分け与えること。
それが性交であり美でありイデアとなる。』」
(神託伝道主・巫女ディオティマ──「饗宴」プラトン)
「ボーヴォワール16」
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12632010101.html
「もし私が味覚の快を遠ざけ、性愛の快を遠ざけ、聴覚の快を遠ざけ、さらにまた形姿によって視覚に起こる快なる感動をも遠ざけるならば、何を善いものと考えてよいか、この私にはまったくわからない。」
(「西洋古典叢書断片集/エピクロス」京都大学学術出版会)
まさにエピクロスの本領発揮、真骨頂。
挙句の果てにここでは、美形の女性を見て、
芸術を楽しむが如くに視覚的な快を得るという
富でも地位でも得られぬ快をもエピクロスは
付け加えているようです。
「肉体の健全な状態と、肉体の存続についての確かな希望とは、これを正しく思考し得る人にとっては、最上の、しかも最も確乎とした喜びである。」
(「西洋古典叢書断片集/エピクロス」京都大学学術出版会)
これを見失ってしまっている人が多い。
この喜びと感謝を忘れ去り、やれ自分探しだ、
やれ己の人生とは、などと甘ったれた悩みを真剣に、
挙句の果てには悩み過ぎてしまう人までいる現代とは、
いかに哲学を知らぬ人々ばかりが増殖し続けているのか、
空恐ろしくなるばかりなのであります。
「美とか、諸徳とか、その他この種のものは、もしそれらが快を与えるならば尊重されるべきである。だが、もしそれらが直接的に快を与えるという保証がないのなら、それらにわかれを告げるべきである。」
(「西洋古典叢書断片集/エピクロス」京都大学学術出版会)
もういいかげんにミテクレとか世間の評価とか、
周囲の人の視線とかに捉われるのはやめておいたほうが、
よさそうな気もしないでもないのです。
そしてそのような相手との付き合いも所詮は
似た者同士というか、薄っぺらな人間が
より薄っぺらな人間と交流したところで、
なにも得るものなど残りはしないのだということも、
よくよく洞察しておくべき頃であるようにも思われます。
今は得るものがあるように感じたり考えたりしていても、
それらの諸々は所詮は偽善と虚飾と虚偽の塊で、
後になれば必ず、その時間を後悔してしまうものだということも、
よくよく考え抜くべきなのかも知れません。