言葉は力、言葉は愛、言葉は霊魂、
しかし言葉も万能ではない、ようです。
「およそ語られうることは明確に語られうる。そして論じえないことについては、ひとは沈黙せねばならない。」
(「論理哲学論考」ウィトゲンシュタイン)
世の中、神羅万象、宇宙・・・
ヒトの世はヒトの言葉で語りうるけど、
世の中は人間だけの世でもヒトだけの宇宙でも
人間だけの地球でもない。
それら神羅万象について、
我々の知り得ぬ叡智の存在に気付いている者ならば、
知っていると思い込んでいる事柄を疑い、自分が知っていると思い込んでいること自体も疑い、それらの疑問を一つ一つ吟味して論じあえる事柄とそうでもない事柄とを見極め、人として謙虚であり畏怖する心を断じて忘れぬという矜持を持って生きるのが正であると思われます。
いっぽう懐疑主義哲学(ピュロン哲学)においては、
「証明不可能な議論に基づく限り、
全ての議論は仮言命題となる。」
(「ピュロン主義哲学概要」セクストス・エンペイリコス)
───西洋古典叢書───京都大学学術出版会───
となるようでもあるのです。
「ピュロン主義哲学12」
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12653217523.html
「かくして、本書は思考に対して限界を引く。いや、むしろ、思考に対してではなく、思考されたことの表現に対してというべきだろう。
というのも、思考に限界を引くには我々はその限界の両側を思考できねばならない(それゆえ思考不可能なことを思考できるのでなければならない)からである。」
(「論理哲学論考」ウィトゲンシュタイン)
我々の言語で思考できる、あるいは
我々の言語で表現できる思考には
思考不可能なこともあるのだということを
思考できるのでなければならない、あるいは、
言語で表現できぬ思考も存在する可能性が大いにあるということも認識されていなければならない、とでもいうことなのでしょうか。
ウィトゲンシュタインは
二枚目だけど、わかりにくい。
ウィトゲンシュタインは、
ハンサムだけど、天才でもあるようです。
ハンサムじゃないのに天才かも知れないけれど、なぜかチャーミングなのがアインシュタイン。
アインシュタインこそ、
「知は己の醜さまで補ってあまりある」
正に!であるようです。
また閑話休題。
「したがって限界は言語においてのみ引かれうる。そして限界の向こう側は、ただナンセンスなのである。」
(「論理哲学論考」ウィトゲンシュタイン)
限界であるという宣言は、
アタリマエに言語によってだけ
表せるものなのだから、言葉に尽くせぬ、あるいは、言葉で表現する限界の外の世界は宇宙の混沌、またはブラック・ホール、つまりはただナンセンスであるということだけであるようです。
ウィトゲンシュタインは
アタリマエを小難しく言っている
だけだと思ったら大間違い、ウィトゲンシュタインはやっぱり天才なのです。
「本書の価値の第二の側面は、これらの問題の解決によって、いかにわずかなことしか為されなかったかを示している点にある。
ウィーン、1918年 L.W.」
(「論理哲学論考」ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン)