生と死の学問14 | コラム・インテリジェンス

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透き通るような…心が…ほしい

経済か命か、という議論から、

五輪か命か、という議論まで、

どこまでいっても命が共通項となって、議論の対象となる以上、これは誰が考えても、何が最終的に最優先事項として扱われなければならないのかは明らかなようです。

しかしながら、世の中には、

このアタリマエ、この明らかなことさえ、

理解できない輩が権力中枢に蔓延っているようです。

 

「九割の痛みを緩和ケアで和らげることはできても、生きる意味の喪失に悩む実存的な苦悩を取り除くことはできない。

 終末期の実存的苦悩への対処を担うスピリチュアル・ケアがそこで何を期待され、何を手放させてしまうことになるのかは、その経済的商業行為とともに、慎重に、かつ批判的に解析されるべきである。

 そしてもちろん、生きる意味の喪失に苦しむのは、末期にある人々だけではない。

 現在の、特に安直ともいえるスピリチュアル・ブームはそれを裏書きする。」

 (「死生学」東京大学出版会編)

 

 スピリチュアルも

 学ぶ必要もあるようにも思われます。

 が、それだけでは

我々ピュロン的懐疑主義を学び、ストア哲学からモンテーニュ、ニーチェまで学んだ者としては、「すべてを疑って俯瞰して観る」というデカルト哲学から逸脱してしまうような気もしないでもないのです。

 

「現在の、特に安直ともいえるスピリチュアル・ブームはそれを裏書きする。」とあるように、

 安直な思考、薄弱な知識だけで、

 ブームと称されるような機運に乗っかってしまうのはなおさらであると言わざるをも得ぬのかも知れません。

 

「さらに、テレビ・スマホ・ゲーム・マンガ・ネット等を毎日何時間も視聴し楽しんでいる人々は、バーチャルな『死』を沢山見ている。

 統計によれば、小学校を卒業するまでに、そのような人々は8千程の殺人・戦死・餓死・自殺などの映像を見せられている。

 これらのイメージの多くはかなりの歪曲を含み、死についても生についてさえ、誤った印象を与え続けている。」

 (「アメリカの死生観教育」カール・ベッカー)

 ───(「死生学」東京大学出版会編)───

 

 学問でも勉強でもスポーツでも、

 最初から面白おかしく楽しめるものは少ない。

 それを乗り越え乗り越え、楽しさ歓びが増えていくものだとも思われます。

 

 この経験の薄弱な人は、

 どうしても安直な漫画・ゲーム等に走りやすい。

 安直なものに走りやすい人は、男として、誰かの人生のパートナーとなることも難しいのかとも考えられます。

 

「思春期は『自分とは、人間とは、人間関係とは』という問いが本格化し、人格形成のための大事な時期である。

 他方、テレビ、ビデオゲーム、マスメディアが与える幼稚な歪曲した生と死のイメージを正すためにも、死生学、死生観教育が必要になってきている。」

  (「アメリカの死生観教育」カール・ベッカー)

 ───(「死生学」東京大学出版会編)───