その概念が真正であるのなら、
結果は予想通り想定内に納まりを見せるけど、
その概念が虚偽であったのなら、結果はその真逆の事態となってしまうようです。
「真の概念は我々の経験を予期された到達点へと導く概念であり、虚偽の概念はその概念において我々が抱く期待を裏切る経験へと導く概念である。」
(「6人の世俗哲学者たち」ルイス・ホワイト・ベック)
己の過去の立ち位置を検証し、
その後も研鑽を積めば、
それを補って余りあるほどに悦ばしい経験へと導くけど、研鑽を怠れば、我々の期待は裏切られる結果へと導かれてしまうのも、アタリマエといえばあまりにアタリマエであるのかも知れません。
真の概念とは、
豊富な知識・経験・結果・実績を積み上げた結果として
描き出す概念であり、安直に入手したそれとは真逆となってしまう危険も正邪も問われてしまうような気もしないようにも思われなくもないのです。
「空虚な概念は、どこへも導かない。つまり、我々のためにある事も、またその反対のことも準備しない概念である。
概念は将来の経験において検証されるべき仮説であって、それ自身だけのために抱かれるべき何か、あるものではない。
仮説は行為の計画である。行為は仮説を検証することも反証することも出来る。
『真理』は我々の思考方法における唯一の方便である。
丁度、『正義』が我々が信じることにおける唯一の方便であるように。ただ我々はこの『方便』をある長期間の経過を記述するために用いなければならないのであって、単に一時的な苦境から我々を脱出させるための方便としてはならないのである。」
(「6人の世俗哲学者たち」ルイス・ホワイト・ベック)
方便は行為の仮説が正であったという経験が検証する。
行為の仮説が真であるためには概念が正でなければならぬ。
概念を真正なものとするためには知恵と経験が必要となる
ということなのかも知れません。
「プラグマティズムの認識理論については、これまでとしよう。第一章(当シリーズ1~25)で述べた実証主義者たちのように多くの哲学者たちがこの真理の理論について多く取り上げて、次のように結論付けた。
即ち、神の理念はこの経験的検証の主題ではない。仮に神が存在しようがしまいが、将来経験は予見的に何ら異ならない。
従って、神学的理念は仮に虚偽でないとしても、少なくとも空虚であるか無意味であるかにすぎねい、と。
しかしジェイムズはこのような実証主義的な推論はしない。彼がそうしないのは、ここで含まれているような二種類の異なる検証に明確な区別をつけないからである。」
(「6人の世俗哲学者たち」ルイス・ホワイト・ベック)
一つの検証、すくない経験で推論・論理を組み立てるのは愚か。
二種類以上の検証・経験・知識・哲学・学問に基づき、
物事の正邪・可否・仮説・概念・予期される経験を論理的分析して行うのが肝要であるようにも思われなくもないのです。
「そして、彼はある時は一つの、また別の時には他の検証を用いて、各々(おのおの)に同等の重要性をおくのである。」
(「6人の世俗哲学者たち」ルイス・ホワイト・ベック)