クムラン8 | コラム・インテリジェンス

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透き通るような…心が…ほしい

今年の9月、このままでは僕も66歳にでもなってしまうのではないかという愚かさの勢いを保ちながらも、先人たちの知恵をお借りして生きながらえてまいりました。

 

当コラムにも再三御登場頂いていて、個人的にもたいへんお世話になっている養老孟子氏、吉本隆明氏、そして今回はドイツ文学者・池内紀氏の「すごいトシヨリBOOK」からの引用です。

 

賢者たち御自身の「今」を記した作品には、熟成された言葉の数々が多々詰まっているようにも思われるのです。

 

「だから、何でも喜劇になってしまう。まあ、今、生きていることがだいたい滑稽ですから。

 人生なんてその程度のものでしょう。地上の生き物の中で、人間は地球を痛めつけることばかりして、大した生き物じゃあありません。」

(「すごいトシヨリBOOK」池内紀)

 

「学務を成就する義務はないが、それをしないでいる自由もない。また、数学的概念の存在を理解し、それを展開することが知性を身に付ける上では肝心なのである。」

(「クムラン」エリオット・アベカシス)

 

単純に申し述べてしまえば、1+1=2であるから、ゆえに、2+2=4と成り得るという論理。

仮定を立証し、証明された定理に基づき知性を展開していくことが知性を身に付けるということであり、それはそのまま品性・品格・美徳を身に付けるということにつながるようですが、それらを成就する義務も可能性も少なく、が、それらを身に付けようという努力を惜しむ自由は、人間として、人として、真っ当に生きようという証を示すためには、そのような呑気で怠慢で軽薄な自由などはないということなのかも知れません。

 

「この死海の畔から、この無愛想極まりない、人も動物も寄せ付けぬ、原初の風景からこそ、一神教が生まれ出でたはずなのだ。そしてこの一神教こそがこの土地が産出した唯一のものでもある。

 名もなく、(おもて)もなく、身体も持たず、純粋の不在であって、その足跡も出来事も残さない唯一の庭、それがクムランだったのだ。」

(「クムラン」エリオット・アベカシス)

 

人類は元々雨の神、海の神、山の神、豊穣の神等々の多神教から知を思慕するようになったはずでもあるようです。

ゼウス・ガイア・アフロディティ等々の神々が始まりのはじまりであり、一神教については議論が残る命題でもあるとも思われなくもないようです。

が、クムランのような土地に追いやられた民たちが、知を磨き、知を探求することだけに生き甲斐を見出し、そこから万能の知の象徴として神の存在を捻出させたというプロセスには何となく頷けるものもあるような気もしないでもないのです。

 

「エッセネ人は書いて、読んで、探求して生きていた。」

(「クムラン」エリオット・アベカシス)

 

神の如く“純粋の不在”がエッセネ人の生き様であったようです。

現実社会から迫害を受け、現実的には不在の存在となりながらも、純粋に知を求め続けた孤高の人々こそ、エッセネ派の人々であったともいえるようにも思わます。

 

はいる。が、それは一神教でも多神教でもないとも思われなくもないのです。

神は自然本性・宇宙摂理・真実真理・確たる論理の中にこそ個々人に存在しうるものであるような気もしないでもないのです。

 

人は、に従い、神を畏れ、神を敬い、生きて学んで、清廉潔白・独立独歩・虚飾虚栄に紛れず、神の意思のままに天寿を全うするが良き人生であったといえるのかも知れません。

 

「私はかつてエルサレムでイスラエルの民の主であった。

 私は心を傾けて探求したことがある。知を開いて、はかったことがある。天の下で起こる全てのことを。

 神が人間に与え、人間の営みを定めし全ての難儀なことを。太陽の下で起こる全てを眺めてみた。

 ところが全てが虚しく、全てが懊悩(おうのう)(悩み悶える苦悩)であり、よじれたものはなおらず、過ちは数え切れない。

 そこで私は知恵を知ろうと努めた。過ちと狂気を知ろうと心を傾けた。だがそれとても煩悩であることを知った。」

(「クムラン」エリオット・アベカシス)

 

懊悩(おうのう)からの脱却を望み、

知を得ようと欲すること自体が煩悩であるようです。

が、僕はそれ以外に懊悩からの脱却を叶える法を知らない、思い浮かばない。カネと立場の上に成り立った酒池肉林的多重恋愛なり純愛であると思い込もうとしていた情動によって、一時的に懊悩からの脱出は可能であったけど、それも所詮は一時しのぎの欺瞞とうたかたかりそめでしかなく、それがさらなる強力な虚無を生み出すことも嫌というほど味わってまいりました。

 

「なぜならば知識が溢れかえれば、悲しみが溢れかえったから。

 知識によって、育つもの、苦悩によって育つ。」

(「クムラン」エリオット・アベカシス)