そして現代人である我々は幸いなことに人類が何千年も費やして
蓄積してきた知識のほんの一部から学び始めることができる。
古人(いにしえびと)が魂を込めて全身全霊を傾け、時には命さ
え賭けて手に入れてきてくれた知を我々はどれだけ真摯に受け止
めているのでしょうか。
知を求めぬ者は
古人への恩義を投げ捨てているのかも知れません。
知を求めぬ者は、古人にも他者にも敬意を持てぬ裏切り者。
知っているつもりになっている者は単なる軽薄、愚か、醜悪、
悪徳の塊であるにすぎないような気もしないでもないのです。
現代ではアタリマエになっている音と振動と大気の関係も、
古代ギリシャにおいては好奇心を満たす
知の媒体と成り得たようです。
「ホメロスの『大気を震わす神々の伝令』という言葉が、ゼノンによって『声とは振動させられた空気である』という定義の基となったと思われる。」
──(「ホメロス『イリアス』注解集」エウスタティオス)──
(「ゼノン/初期ストア派断片集」京都大学学術出版会)
「・・・かくして神々は、哀れなる人間たちの運命の糸を紡ぐ。悲嘆に暮れながら生きる者もあれば、何の不安もなく、その生を送る者もある」
───(「イリアス」ホメロス)───
「ユングとギリシャ神話」
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12534120756.html
つくづくゼノンを祖とするストア派は、新語創作、
定義、概論、洞察好きであるようにも思われます。
いや、そうではなく、それだけ勤勉、実直、美徳、正義を愛する
人々が集まっていたと畏怖すべきであるのかも知れませんネ。
「ストア派の哲学者は、弁論術が上手に話す知識であると言った。
そしてさらにストア派は、確実な把握を持っていることであると定義し、智者のみに備わるとしたのである。」
(「ゼノン/初期ストア派断片集」京都大学学術出版会)
何かを弁じて論じるには、要は何かを話すときには、
あらゆることを把握してから話すことが大切であるので、
それは知恵のある者に限られてしまうのかも知れません。
が、現実にはこれのない人が知った風なくちをきき、
無駄にベラベラとしゃべりまくる傾向にあるようです。
「またストア派は、弁論つまりは主張あるいは意思の表明と、話すということは別であるとしている。
話すことは論理学(対話術)の基礎であり、細部まで考察しながら長々と話すことは弁論術に固有のことだからである。
だからゼノンも論理学と弁論術の違いを問われた時に、手を閉じてまた開き、『これがその違いである』と言ったのである。
指の閉じられた状態が、凝縮された簡素な論理学の特徴を表し、開かれ、指が広がって指の一本一本までをも表した手の状態が弁論術の幅広さになぞらえたのである。」
──(「学者たちへの論断集」セクストス・エンペイリコス)─
(「ゼノン/初期ストア派断片集」京都大学学術出版会)
・・・難しい・・・ふぅっ・・・小難しい!
近年では小生意気にも「ボキャブラリーが多い少ない」などと
安易に扱われているけれど、ボキャブラリーとは単語の総数
であるので、一般に日常的に使われる単語の総数が多いから
といって自慢できるようなものでもないとも思われます。
ここでストア派が述べているのは、言葉のやりとり、つまりは
対話法が論理学を生み出し、論理学の総数が豊富な智者のみが
弁論術を習得できるのだということのようです。
そういえば、やたらと言葉数ばかりが多くても、結局、
何を言っているのか、何を伝えようとしているのかさえ
わからぬ話を延々となさる人もいたりいなかったり。。。。。
「ストア派の教えを始めたゼノンはこれらの学問がどう異なっているかを、手を使って示すことがよくあった。
すなわち、指を閉じて拳をつくり、論理学とはこのようなものと言い、指をゆるめて開いて手を広げ、弁論術に似ていると言ったのである。」
───(「弁論家」キケロ)───
(「ゼノン/初期ストア派断片集」京都大学学術出版会)
「英知だけが、すべて自己充足しているものである」
(「善と悪の究極」キケロ)
「モンテーニュの『狭義』」
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-11875327557.html