「私たちは、ある種の欲望や感覚については、恥じることなく語ります。
ところが性欲などの別のある種の欲望や感覚については、口を閉ざします。」
(「ウォールデン 森の生活」ヘンリー・D・ソロー)
近年では、ソローの時代よりは、
性について語られる機会も多くなってきている
ようにも思われなくもないのです。
「難しいのは、自分が不純であることを語らずに、この問題は論じられないからです。」
(「ウォールデン 森の生活」ヘンリー・D・ソロー)
なにが不純で、なにが不純でないのか。
性の営みを不純であると捉えるのか、
あるいはプラトン、アリストテレスをはじめ、
キリスト教以前の賢人たちのように、
性を純粋なるものとして受け入れてしまうのか。
個人的には、ここにも一部のキリスト教の
悪しき解釈と教えが弊害となってきているようにも、
思われなくもないのです。
キリスト教から離れ、イスラムでもヒンドゥーでも、
仏道でも、科学的哲学的な解釈を行えば、
性は聖なるものでも邪なるものでもないということくらいは
容易に理解できるような気もしないでもないのです。
「恋とは、われわれの魂の最も純粋な部分が未知のものに向かっていだく聖なる憧れである」
(「薔薇色の雲」ジョルジュ・サンド)
「ジョルジュ・サンドとマルクス~ショパンへ」
「精神の本性を最高の善だとして称賛し、
肉体の本性を悪だとして非難する者は、本当は、肉体的に精神を求め、
肉欲ゆえに肉体をさけているのだ。
というのも、これは神の真理からではなく、
人間のむなしさによって感じられることなのである。」
(「神の国」アウグスティヌス)
「アウグスティヌス」
「私たちの社会は堕落していて、人間の本性を作る基本的な働きを、簡潔に語ることができません。古代の国家のいくつかでは、これら基本的な人間の働きすべてを受け入れ、敬虔に語り、法律によっても保証されました。」
(「ウォールデン 森の生活」ヘンリー・D・ソロー)
キリスト教誕生以前の国家、社会においては文武両道、貨幣などよりは知性と武力、才気と性に対する姿勢がおおいに試されていたようです。
が、一部のキリスト教徒、一部の仏教徒、アホな神父、牧師、坊主によって、いつのまにか、
性に関してはタブー視することが良であるとされてしまった。
結果、政治家、官僚、アホな神父、牧師、坊主たちは、知も武もなき醜悪なる薄汚れた自分たちの深層を隠すために、権力、金力、地位、名誉によって、あくなき己たちの性欲、欲望を満たすことだけに専念するようになってしまったかのようにも思われなくもないような気もしないでもないのです。
なので、現代社会のように、労働意欲を失った人々が蔓延してしまうのは、むしろ真、
むしろ良き社会への変革の前兆であるのかも知れません。
「狡賢い人間が作りだした契約社会は
醜悪なだけの社会となる」
(「統治二論」ジョン・ロック)
「支配される予感」
性は謳歌すべきものであり、
生は自由であるべきである。
僕は性が大好物で、
自由と性を求めて、
知と武と、すべてを捧げてきた
ようにも思われなくもないのです。
「ジョンの心に、こうささやく声が聞こえてきました──
──『あなたはなぜ、この場に住み、苦労ばかりの惨めな暮らしを続けるのですか?あなたに合う、輝かしい、歓びに満ちた生き方もあるのに。この地に輝く星と同じ星が他の地にも輝いているのに』──
──でも、いったいどうすれば、今の暮しから抜け出し、別の暮しを始められるのでしょうか?
ジョンはこう考えました!
余計ないっさいを捨ててしまおう。
簡素に暮らし、知恵を自分の体に注ぎ、自分の体を救い、自分を大切にする気持ちを作っていこう!」
(「ウォールデン 森の生活」ヘンリー・D・ソロー)