無双無想の極意 | コラム・インテリジェンス

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透き通るような心が…ほしい…。

古人(いにしえびと)は、
常に死の恐怖に脅かされていたそうです。
 
そこで、宗教が派生し、宗教によって、
天国とか極楽を夢想することで
心の安寧を求めていたようです。
 
我々にとって死の恐怖は、
たいして身近なものでもなくなってしまったようです。
 
そこで、現実の不安や不満、理不尽を昇華するために、
ヨガとか座禅の瞑想を活用し、
心の安寧を求めているのかも知れません。
 
が、両者に共通するものは
真実、事実からの逃避または回避であるようにも
思われなくもないようにも思われます。
 
私事、個人的には無宗教であり、
ヨガとか座禅の瞑想も、自分にとっては、
夢中になれるものでもなかったようです。
 
ヨガとか座禅の真似事として、呼吸を整える。
呼吸を整え、呼吸に集中することで、
 
あるいは呼吸に集中できぬときでも、
何も考えぬこと、無想に専念することくらいは
できるような気もしないでもないと
思われなくもないようにも思われるという結論を
見出したような気もしないでもないのかも知れません。
 
さらには、どうしても、何も考えぬとか、何か、
嬉しくないことを思い浮かべてしまうときには、
 
アタリマエに感謝、アタリマエな事柄に、
素直に、謙虚に、喜べるように
心がけることが肝要かとも思われなくも
ないようにも思われてきています。
 
交通事故にも病気にも遭遇していないのなら、
そこから派生する肉体的無痛も精神的苦悩も、
体現せずに過ごせている現実に感謝、
それこそを素直に喜びたいと願っております。
 
ネットがつながらぬ環境にも置かれていないのなら、
ネットにつながるだけでも有難いと、
素直に、謙虚に喜びたいと思われます。
 
当面の衣食住に困窮するわけでもなく、
挙句の果てにはテレビだネットだと、
余分な恩恵にも授かっている自分を、
素直に感謝、謙虚に喜びたいと願っています。
 
無双は、無想の極致から生まれ、
無双は、無想の極意を体得して初めて、
体現できるのかも知れません。
 
無双は唯一無二、最強、最良の心身状態。
無双を体得するためには、
 
たとえ邪道であっても、何か、
有難いと思われること、喜ばしいと思われることを
夢想してみるのもひとつの戦略であるのかも知れません。
 
自分よりも苦悩している人々、
自分よりも困窮している人々を、思い、思いやることで、
 
優しさや感謝、喜びや有難いという心魂も、
育まれていくような気もしないでもないのです。
 
「もっと喜ぼう。ちょっといいことがあっただけでも、
うんと喜ぼう。喜ぶことは気持ちいいし、
体の免疫力だって上げる」
(ニーチェ「ツァラトゥストラはかく語りき」)
 
「喜べば、くだらないことを忘れることができる。
他人への嫌悪や憎しみも薄くなっていく。
周囲の人々も嬉しくなるほどに喜ぼう。」
(ニーチェ「ツァラトゥストラはかく語りき」)
 
「喜ぼう。この人生、もっと喜ぼう。
喜び、嬉しがって生きよう。」
(ニーチェ「ツァラトゥストラはかく語りき」)
 
美知武習録180(ニーチェ)