サルトルとボーヴォワールが、
どのようにつながっていたのかはわからない。
所詮、男と女は本人同士でなければわからない。
が、サルトルがボーヴォワールに惚れた理由はわかるような気もしないでもない。
サルトルは実存主義の人である。
神が人間を創ったとするなら、人間は人間が創ったコップと同じになってしまう。
水を入れる器として作られたコップが「コップである」と確定されてしまうのとは違って、
人間は初めからこうであると確定されたものではない。(「真理と実存」)
乱暴な言い方をしてしまえば、人間なんてコップほどにも
わけわからない存在なのかも知れませんね。
それでもヒトは自分がコップほどにもわけわからないという解らないを
認識することから始めれば何とかなる可能性を持った生きものでもあるらしい。
「まず第一に理解しなければならないことは、
自分が理解していないということである」(「方法の問題」)
これはソクラテスのパクリのようにも思えてしまう。
が、ソクラテスの言葉は誰が取ってしまっても良い。
たとえ猿でもソクラテスの言葉を取ってしまう権利は有しているらしい。
だから、サルトル。?
サルトルは、
本質は偶然の出来事に対して、どの都度自分で選択した
主体性を持った事実の積み重ねによって創られると考えた。
そこには神は存在しない。あるのは人間だけ。
そこには倫理も道徳も存在しない。あるのは個人の自由と選択だけ。
あるのは自由と責任が拘束を生み出すという事実だけである。(「弁証法的理性批判」)
「自由とは、自由であるべく、不自由になることである。」(サルトル)
「人間は、自らの行動の中で、自らを定義する。」(サルトル)
なによりも自由を愛したサルトル。
何者をも個人の自由を妨げることは許されないと考えていたらしい。
「人間は自由であり、つねに自分自身の選択によって行動すべきものである。」(サルトル)
自分で自由に選択した状況の中で、人間は自然に対処していく生きものでもあるらしい。
「人間は状況によってつくられる。」(サルトル)
自由な人間は、現にあるところの確実なものを抵当に入れて、
いまだあらぬところの不確実なものに自己を賭けることができる。
自己が主体的に状況内の存在に関わり、内側から引き受けなおすことができる。
このようにして現にある状況から自己を開放し、あらたな状況のうちに自己を拘束することは
「饅頭が自慢」と言われている。もとい、「餡が自慢」と言われている。いや、
すみません。「アンガージュマン(engagement)」と言われているらしい。(「論理学ノート」)
サルトルは餡が自慢の、いや、アンガージュマンの実践を通して、
みずからの思想と哲学、論理を実証しようとしていたのかもしれません。
人間に本質などなく、その本質があるのだとするなら、
それは自由であるということなのかも知れませんね。(「存在と無」)
「すべての答えは出ている。どう生きるかということを除いて。」(サルトル)
自由万歳。あとは自らの手で具体的なアクションプランを練っていけば良いらしい。(「想像力の問題」)
が、醜悪な人間たちが存在しているのも、また事実のようです。
「金持ちが戦争を起こし、貧乏人が死ぬ」(サルトル)