「何をしても空回り、さんざん無駄に苦しんだ挙句、必然的なことには逆らわず、ただ運命に身をまかせるしかないという結論に達した。」
(「孤独な散歩者の夢想」ジャン=ジャック・ルソー)
何が必然で、何が必然でないのか。
ルソーは、己の深淵にして
純聖なる思考に基づいた信念とともに
巻き起こしたその行動によって、
追放と逃亡、孤独と失意に追い込まれた。
それではルソーは、己の情動の結果がもたらす
己への仕打ちを必然と考えられるようになったのか。
それもある。それもある、が、
そこには必然という要素の他に、
ルソーがたまたまそこにいた、あるいは、ルソーが、
たまたま発言してしまった、または、そのルソーの
思考を理解できる者が、たまたま少数でしかなかった
という偶然も、ルソーの状況を左右していたとも
考えられるような気もしないでもないのです。
偶然と必然は、我々の中の知性と品性、感性と論理で、
十分に処理可能な情態であるとも思われなくもないのです。
「私たちは偶然によって条件づけられ、偶然の中に生きる。」
(「アリストス」ファウルズ)
「アリストス 4 『ファウルズは語る』」
https://blogs.yahoo.co.jp/shigetage/34088274.html
「こうして諦めてみると、これまでの苦痛がすべて埋め合わされるほどの平穏を見つけ出すことができた。
この平穏こそ、諦めが私にもたらしたものであり、つらく報われることのない抵抗を続けていたときには、得られなかったものである。」
(「孤独な散歩者の夢想」ジャン=ジャック・ルソー)
ここでルソーのいう諦めるという情動は、
運命に身をまかせるとか、運命に身をゆだねる、
あるいは受入れ、または時の流れに自分を明け渡す
という情動に近いのかも知れませんネ。
「どんなときでも、人は自分を明け渡すことによって、かぎりない平和をみいだすことができる。」(「ライフ・レッスン」エリザベス・キューブラー・ロス&デーヴィットケスラー)
「こころのルール・ブック 12」
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12457814668.html
「私が平穏を取り戻すことができたのには、ほかにも理由がある。
私を攻撃した者たちは、あらゆる形で私への憎悪を極限状態までもっていこうとした。
だが、奴らは激情のあまり、ひとつ忘れていたことがある。
私を苦しめ続け、日々の苦しみを新たにするような状況におきたいのなら、たえず新たな攻撃を加え、じわじわと攻撃を強めていくのが最も効果的だったはずだ。
もしわずかでも希望の余地が残されていたなら、たとえそれが彼らの巧妙な罠であっても、私はその希望にすがろうとし、今でも苦しんでいたことだろう。
そして、彼らは私を騙し、もてあそび、期待させてまた新たにその期待を裏切ることで、私を苦しめ続けることができたはずだ。
だが、彼らは、最初からあらゆる策を出し尽くしてしまった。
私からすべての希望を奪うことで、彼らは私をいたぶる機会をみずから手離してしまったのだ。
彼らが私に浴びせかけた罵詈、誹謗、嘲笑、汚辱はすでに頂点に達しており、弱まることはないにしろ、これ以上ひどくなりようもない。
要するに、双方とも早々に限界に達してしまったのだ。
あちらは最大限の攻撃を加えようと必死になり、こちらはこちらで最悪の状態に必至に耐えるばかりだった。
敵側は、私を最大限に痛めつけようと急ぎ過ぎた。
もはや、地獄の助けを借りようとも、人の手で可能なあらゆる策略を出しつくしてしまい、これ以上は何もできなくなってしまっている。肉体的な苦痛を与えようにも、こうした苦痛はさらに追い打ちをかけるかに見えて、実は精神的苦痛から気をそらせる効果をもつ。
痛い、痛いと声をあげれば内に秘めていた苦痛を発散させ、肉体の痛みによって心の痛みを忘れることができるのだ。」
(「孤独な散歩者の夢想」ジャン=ジャック・ルソー)
昇華、という。
ルソーはもう、何も望まない、
いや、何も望めぬまでに追い込まれてしまっている。
そこから、現状を受け入れる、あるいは、現状の再確認。
どのような状況にあっても、そこには必ず、
今そこにしかありえない幸または救いがあるはず。
それを見出すことのできた人間の情動こそが、
昇華と称されるものであるのかも知れません。
「現在持っているものよりもマシなものを望む人は、まったく愚かな人間である。
『もっとよいもの』が、実は『本当に良いもの』の敵である。」
(ショーペンハウアー「意志と表象としての世界」)
「昇華」
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12115402030.html
あるいは、諦観、という。
覚醒、よく見て受け入れる、または諦める。
あるいは別の思考、情動の可能性を吟味して、
達観または俯瞰して悟ることであるような
気もしないでもないのです。
諦観(ていかん)の極意とは
諦めることだけにあらず。悟ということだけにもあらず。
諦めたつもりになって、
別の方法を観極めることと覚えたり。
「ソロー 14」
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12500431068.html