少なくとも先進国においては、
嘆くのはやめて闘おう、というスローガンの時代は終わりを告げ、
今や嘆くのはやめて自己完結しよう、
という時代に差し掛かってきているのかも知れません。
これは弱者が弱者を虐める行為であるとか、
田舎者が田舎者をバカにするという情動と
つながっているようにも思われなくもないのです。
自己完結するという情動は、ある意味、成熟を表象し、いっぽうで、闘う、虐める、バカにするという情動は、社会であるとか他者にその捌け口を見出だそうという稚拙さを表象しているのかも知れません。
が、それはそのまま社会が成熟しているとか稚拙であるということにはならない。
成熟は社会とか個とのつながりの希薄さを露呈しているようにも思われるし、
稚拙には社会とか個とのつながりが重要な位置を占めているという事実も見逃してはいけないようにも思われなくもないのです。
自己完結とは、まぎれもなく自分自身と向き合うこと。
自分自身と向き合うという情動は、ただ漠然と自分に思いを巡らせるのではなく、
外からの知識であるとか経験とかと照らし合わせてみて、その刺激をもってして、
初めて真に自分と向き合ってみたといえるような気もしないでもないのです。
「腰を揉んだ。全身が悲鳴をあげている感じ。こめかみの皮膚に触れると痛いし、首のつけ根がずきずきする。まだ昼前なのに、全身の至るところから疲労がおもりのようにぶら下がっていて体が重かった。」
(「紺青の傷痕」オリヴィア・キアナン)
シーハンは30代前半、
現代女性は30代前半にして、もう体はボロボロのようです。
中身はともかく、これでは僕のようなジィさんと変わらぬ体調。
嘆くのはやめて闘えば何とかなる社会であるのなら、それも可。
が、嘆くのをやめて闘ったところでどうにもならぬほどに腐敗してしまった社会においては、自己完結する以外に生き抜く方法がないのかも知れません。
己と向き合う。自分自身と向き合う。
己にとって何が一番楽ちんで、何をしているときが一番己を表現できていると思えるのか。
己にとって何が一番苦難であって、どのような状態のときが一番つらいと感じてしまうのか。
それぞれにはそれぞれのあれこれがあるけれど、
自分と向き合うためのプロセスであったりエクササイズには多くの人々に共通した効能を示すものもあるようです。
そのもっともポピュラーなものが深呼吸。万国共通。
医学、薬理学、哲学、精神心理学、挙句の果てには武道、礼法にもかなったエクササイズであるのかも知れません。
千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)を2度も満行した行者としても知られる酒井 雄哉(さかい ゆうさい)師も深呼吸を重んじられておられた。
師の著書「一日一生」には
「酸素があるから呼吸ができる。
呼吸ができるからこそ生きている。
そのことだけでも感謝しなくてはいけないのだ。
生きていれば、何があってもアタリマエ。」みたいなことが記されている。
「生きる修行」
https://blogs.yahoo.co.jp/shigetage/38727577.html
また、親鸞聖人は深呼吸と共に心で唱える言葉まで用意して下さっている。
「弥陀(みだ)を憑(たの)む」(「教行信証」親鸞)
「弥陀(みだ)を憑(たの)む」は
「他力と言うは、如来の本願力なり」(「教行信証」親鸞)につながる。
すべてを天に委ね、我らは
「弥陀(みだ)を憑(たの)む」
「他力と言うは、如来の本願力なり」と唱え、
ただ静かに呼吸を整えるだけ。
「ブッダ・メッセージ56(親鸞)」
https://blogs.yahoo.co.jp/shigetage/41255146.html
他力本願は運否天賦に頼ることではなく、天に身を委ねる潔さ。
それこそが如来の本願力というものだそうです。