たとえば、
映画の主人公になったつもりで街中を歩いてみる。
この時に頭の中で流れる音楽も個人のセンスを表象する。
たとえば、
映画の主人公になったつもりで、自分の部屋で日常の生活をおくってみる。
この時に流れている音楽も個人の品性を表象してしまう。
その映画をどのような映画にするのか、どのようなキャラを主人公に与えるのか、どのような音楽を使うのか。
自分の人間性とセンス、自分の個性と品性を試行してみるのも、自己向上への有益なステップとなってくれるのかも知れません。
「人々から称賛されるもっとも近道の方法を、教えよう。
私は、人々からこう思われたい、という理想像を、まず思い描く。
そして、その理想像どおりにふるもうことである。」
(キケロ「義務について」)
ストア哲学とは一線を画しているとも思われるモンテーニュに言わせれば、少し違った視点もあるのかも知れません。
そして僕もまた、どちらかといえば、モンテーニュよりの傾向であると言わざるを得ぬような気もしないでもないのです。
「偏屈」
https://blogs.yahoo.co.jp/shigetage/40190303.html
「人々から称賛されるもっとも近道の方法を、教えよう。」
個人的には、「人々から称賛される」ことに対して、あまり意味を見出せずにいます。
実力とは関係ないと思われるスキルを称賛されまくった時期とその影響を体現してしまったからなのかも知れません。
他者からの称賛よりも、自分で自分自身を称賛できるような情動を好ましく思う。
「私は、人々からこう思われたい、という理想像を、まず思い描く。」
個人的には、「人々からこう思われたい」と思うことは少なく、自分が「自分自身はこうでありたい」と思うことのほうが圧倒的に多いようにも思われます。
人々の称賛を求めるのなら、人々からの批評も覚悟しておく必要がある。
他者を意識して生きていれば、他者からの無責任な言動に惑わされる場合もある。
人々からの称賛を求めなければ、人々からの批判も避けられるし、また、それを気にする必要もない。
他者を意識しなければ、他者の無責任な言動に煩わされることもない。
何かを求めれば、かならず何かがついてきてしまう。
といって何も求めずに生きて行くということは不可能に近いようですので、少なくとも人々からの称賛だとか他者の思いなどは求めず切り捨てて生きて行くのも楽ちん人生の極意の一つであるのかも知れません。
欲しがらなければ苦しめられることもないようです。
「人が欲しがらないものは人を苦しめることもない。」
(キケロ「対話篇」)
「欲しがりません。」
https://blogs.yahoo.co.jp/shigetage/40437209.html
が、どちらにしても、
「そして、その理想像どおりにふるもうことである。」
この方法の実践が、「理想像の映画化」ということになるのかもしれません。
日常生活のなかで、楽しみながら自己実現、自己向上が期待できるのなら、とりあえずは実践してみても、誰にも怒られることもないようにも思われなくもないのです。
「自分の主人となれ」
(ニーチェ「漂白者とその影」
「美知武習録158(ニーチェ))
https://blogs.yahoo.co.jp/shigetage/40862809.html