人間の細胞も希望も苦悩も喜びも、あらゆることは更新することで全体を維持している。
人間の細胞も毎日々々更新されているからこそ、全体として一人の人間の生命を維持し続けることを可能にしている。
なので「昨日の僕と今日の僕は違う」とか「もう昨日の私には戻れない」という揶揄にも聞こえる表現は、じつは科学的にも正しいということになるのかも知れません。
一見同じ人に見えても、その人の中身である細胞は日々更新されている。
一つの細胞の死が新しい細胞の誕生につながっている。
前々回で軽く触れさせて頂いたルドルフ・シェーンハイマの「動的平衡」にはこのような解釈も含まれているようです。
「明日の天気はどうかだってこっちの予想通りにはならないし、思い通りになんかなるはずがない。」
(養老孟子「養老訓」)
それがアタリマエ。
明日の天気を予想するには多くの要素を組み合わせて分析する必要がある。
ひとつひとつの要素は人間の細胞と同じくそれぞれが勝手に変化更新しているのだから、ぞれを天気として予想するのは不可能に近いようにも思われます。
が、ヒトがヒトの都合で天気とよんで概念づけているものも、地球全体あるいは宇宙視野から見れば、個々の現象に過ぎない。
個々の現象がどうあろうと、個々の天気がどうであろうと、地球全体あるいは宇宙視野から見れば、とりあえず均衡または平衡を保っているということになってしまうようです。
「思い通りになんかなるはずがない。考えても『仕方がない』ことの連続です。」
(養老孟子「養老訓」)
養老先生のように「仕方がない」と思える人は人生を楽しめる。
が、「仕方がない」では納得できぬ人にとっての人生は苦難に満ちたものになってしまうのかも知れません。
デカルトが心理学者として著した著作には人間の脳と神経、精神と身体機能に特化した記述が残されています。
「人間の身体は物質的でメカニカルな機械だが、この機械のなかには推論する理性がある。」
(ルネ・デ・カルト「人間論」)
「オカルト・デカルト・アラカルト」
https://blogs.yahoo.co.jp/shigetage/39902091.html
「仕方がない」で納得できる人と、そうでない人。その違いは身体にも仕事にも、その人の運命にさえ大きく影響してきてしまうようです。
「仕方がない」と思えるのか、そうでもないのかもすべて本人次第。あなたまかせのあなたの人生なのでしょう。
ゆえに、
「我思う、ゆえに我あり」(ルネ・デ・カルト「哲学原理」
「般若とエラスムス」
https://blogs.yahoo.co.jp/shigetage/40121798.html
「もっと今の人は『仕方がない』と考えることを身に付けるべきです。そして『仕方がない』と言うべきです。」
(養老孟子「養老訓」)
仕方がないと思えぬ代わりにふてくされたりドロップアウトを気取ってみたり、挙句の果てには無気力な若い男を見ると、養老先生ならずとも、このように思われるのかも知れません。
「仕方がない」は諦めではなく妥協であり、世の中と自分との落としどころ。
自分と世の中との契約交渉においては「仕方ない」の思考が思わぬ幸運を招き入れてくれる場合もあるのかも知れません。
自分のなかの一部が納得できなくても、自分のなかの一部に不平不満が燻っていても、「仕方ない」の戦略をもってして、全体としての自分、自分の運命を、自分の人生を安心安全安寧、あるいは自分の運命、自分の人生、そして自分自身の均衡平衡を維持できるような気もしないでもないのです。
「いわばかろうじて平衡を保っている不安定なメカニズムのどこかに少しのよけいな重量でもかかると、そのために機械全体のつりあいがとれなくなって、あっちこっちがぐらついて来るようなものかもしれない。」
(寺田寅彦「笑い」)
「昇天 2」
https://blogs.yahoo.co.jp/shigetage/40819753.html
「仕方がない」を忘れてしまった人たちは、自ら不幸への道を突き進んでしまいそうで、僕としては心配で心配で夜も眠れぬほどなのですが、それもこれも・・・仕方がない・・・。