煩悩とか拘り、固執とか執着、それらの欲望から解放されたいと願い、我々は宗教とか心理学、挙句の果てには哲学などをも学ぼうとするような気もしないでもないのです。
なので今ココでこれを読んで下さっているヒトは、善なるヒト、良心を失っていない、少なくとも大いなる存在感を示せるヒトであるということなのかも知れません。
で、最近では、インナーチャイルドにフォーカスしたマインドフルネスなどもヒィーチャーされるようになってきているようですネ。
「インナーチャイルド2」
https://blogs.yahoo.co.jp/shigetage/41802254.html
が、そもそもに煩悩とか欲望という意識とは何者なのか。
「意識は照明のように、ついたり消えたりする。照明と同じように明るくなったり、暗くなったりする。はっきりしているときと、ややうすぼんやりしているときがある。さらにスポット・ライトのような性質を持っている。あるものに集中すると、そこだけに意識という光が当たり、他のものは無視される。」
(養老孟子「遺言。」)
これが執着と固執、欲望と拘りという意識の真相であったのかも知れません。
一人の人にスポットライトを浴びせ、フォーカスしてしまえば、もう他は見えなくなる。
「君の愛は他のすべてを忘れさせた。どんな女もいない、君が僕の首に甘い足枷をはめた後では。」(プロペルティウス「エレギア詩集」)
「愛を編むイデア」
https://blogs.yahoo.co.jp/shigetage/40212686.html
「意識に科学的な根拠がないことに、多くの人が気づいているのか、気づいていないのか、私は知らない。しかしヒトの活動のほとんどは意識に基づいている。自然科学もまた、意識の産物である。その意識が自然科学を生み出し、それを学んだ人が『科学的に証明された事実』などという。そういっているヒトの意識を含めて、自然科学の根底をなす意識自体は、科学的かどうか、不明なんですけどね。」
(養老孟子「遺言。」)
わからないものはわからないままでしようがないという場合もあるようです。
わからないものをわかろうとする努力とか向上心が大切なのかも知れません。
わからないものをわかったつもりになっているヒトを、信用することはできないような気もしないでもないのです。
「われわれは他人の心を読んでいるのか、それとも自分を他人と交換して、そのうえで『自分なら』と、自分の心を読んでいるのか。」
(養老孟子「遺言。」)
相手の気持ちを理解したような気持になっていても、それは相手の気持ちと自分の気持ちを交換して、相手の気持ちを自分の意識で、相手の気持ちを自分の知識内で、相手の気持ちを自分の経験内で、わかったような気になっているだけなのかも知れません。
「個人的な好みだが、私は『方丈記』の冒頭が大好きである。鎌倉に生まれて育ったせいであろうか。折に触れてつぶやきたくなる。
行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。」
(養老孟子「遺言。」)
思えば養老先生との出会いから数十年が経過しようとしている。
当時、養老先生は東大医学部解剖学教室の助教授、僕は20代の若造であった。
いまや養老先生は80歳、僕はといえば63歳。
それなのに、養老先生と鴨長明の話をした記憶がない。
本当に話したことがないのか、僕が酔っぱらっていて、せっかくの養老先生との時間を忘れてしまっているだけなのかも知れません。
が、僕も方丈記の冒頭は大好物であるようです。
「冒頭名文にしてすべて」
https://blogs.yahoo.co.jp/shigetage/38885043.html
養老先生も僕も、そして僕たちの時間も空間も確実に、行く河の流れのように、移り変わり、一刻としてその姿をとどめてはくれない。
うたかただから大切にしたい。
うたかたであると気づけばこそ、有難いという尊い感情、感謝の気持ちも自然に湧き上がってくるのかも知れません。