ヒト 2 | コラム・インテリジェンス

コラム・インテリジェンス

透き通るような心が…ほしい…。

ア・イデアはクリエイティブ、創造、企画と展開していくことも可能であるけど、ザ・イデアではどうすることもできない。

ア・イデアには概念的な遊びとか余裕が含まれるけど、ザ・イデアでは固定的な共通性が生じてしまい、それはもうがんじがらめの世界となってしまうような気もしないでもないのです。

概念こそがヒトの頭のなかでの実存であり、見たり聞いたりすることは虚像であり、そう簡単に信じてはいけないという話なのかも知れません。

 

「プラトンは史上最初の唯脳論者だった。つまり頭の中の馬、意識の中の馬こそが実存する、といったからである。理屈で考えたら、それで正しい。だって頭の中で馬を思い浮かべたとき、その馬が存在することは疑えないからである。現に目の前に馬がいなくたって、頭の中には馬はいる。それこそが実存じゃないのか。」

(養老孟子「遺言。」)

 

意識と感覚、概念と想念の狭間というか衝突というのか折り合い塩梅バランスの話なのかも知れません。

養老先生は、ここではプラトンのイデア論にも触れているようです。

眉目秀麗な人もそうでない人も、善人も悪人も、誰もが頭の中で思い描くような馬こそが真の馬である。

プラトンのイデア論では誰もが思い浮かべることのできる知と愛、それこそが究極の美でありイデアであるということなのかも知れません。

 

「イデア」

https://blogs.yahoo.co.jp/shigetage/39701918.html

 

「デカルトはすべてを疑うという当時の風潮に対して、「われ思う、ゆえにわれあり」といった。自分が考えていることだけは、まず認めなきゃならんだろうが、というわけであろう。

(養老孟子「遺言。」

 

自分が不快だと感じているのなら、それはまぎれもなく自分にとっては不快であるのだから、それは素直に受け入れてしまえ。自分が不快だと感じている自分を疑うよりは、そのほうがはるかに楽ちんであり、そのほうがはるかにわかりやすいということなのかも知れません。

 

「オカルト・デカルト・アラカルト」

https://blogs.yahoo.co.jp/shigetage/39902091.html

 

「カントは物自体を知ることはできない、と述べた。われわれに与えられているのは、感覚所与しかないからである。白馬が白いとしても、それは馬の「色を見ている」だけである。馬の体重を計ったとしても、それは体重計の目盛りを見ているだけではないか。馬自体とはいったいなんなのだ。そう思えば、確実に存在しているのは、頭の中の馬だけじゃないですか。」

(養老孟子「遺言。」)

 

唯物論と唯脳論の対決。いや、折り合いというかバランス塩梅も必要なのかも知れません。

なにをどう考えようが自由であるという自由もあるけど、なにもどうにも考えない自由もありということになってしまう恐ろしさも感じてしまうのです。

 

「欲望に身を任せて身を滅ぼす自由も存在するのなら、自分で考え、自分の理性で、その欲望を制御する自由も存在する」

(エマニュエル・カント「実践理性批判」)

 

「自由不自由どっこいしょっ」

https://blogs.yahoo.co.jp/shigetage/40017293.html

 

「西洋哲学はプラトンにつけた脚注だといわれる。プラトンが行った議論がヘンなのではない。冠詞を使っていると、プラトン式の議論が生じて当然なのではなかろうか。」

(養老孟子「遺言。」)

 

コラム・インテリジェンスはあらゆる科学つまりは宇宙物理学・医学・心理学・社会人類学・哲学・人生指南論等々につけた脚注でありたいと願っています。科学がヘンなのではない。偏向した思考は偏狭なる矛盾を生じて当然なのではなかろうかてな感じなのかも知れません。

 

ア・イデアは a b 的な見方。

ザ・イデアは a b 的な見方。

 

冠詞を使う西洋的な思考と、冠詞のない中国的な思考では、論証と詭弁つまりは理屈と屁理屈の違いが生じてもアタリマエといえばアタリマエであるようにも思われなくもないのです。

 

「ここでの問題は感覚所与と意識の関係である。感覚は、違う違う、これとあれとは違うと言い続け、意識は、同じ、あれもこれも同じにしようと言い続ける。その矛盾こそが、いわば西洋哲学を成立させた。」

(養老孟子「遺言。」)

 

ア・リンゴといえば、それぞれの人がそれぞれに思い描くリンゴでよろしい。が、

ザ・リンゴといってしまえば、そのリンゴ、指定されたあるいは限られた、挙句の果てには規定されたリンゴだけの思考に陥ってしまうようにも思われるのです。

 

プラトンの見出したイデアはどこにあるのか、プラトンの夢見たイデアはどこに向かっているのか。

なにが実存でなにが虚構であるのかはわからない。

実存と虚構の狭間、アバウト・カタルシスあるいはニアリ・イコール・カタルシス程度の塩梅バランスが肝要であり楽ちんであるような気もしないでもないのです。

 

「カタルシスをカタるアリストテレス」

https://blogs.yahoo.co.jp/shigetage/39860144.html

 

シニカルとキニコス、キニコスと君、越す。

なにがなんだかわけわからぬことでも、それでいいじゃないかのスタンスを大切にしたい。

 

「空気を読まない君、越す。」

https://blogs.yahoo.co.jp/shigetage/39860911.html

 

それでも僕は彼女のことをより良く知りたい。

知りたいという欲望が知であるのなら、僕は知と愛を融合することができる。それだけで生きていけるような気もしないでもないのです。

 

「愛だけで生き抜ける」

https://blogs.yahoo.co.jp/shigetage/39896308.html

 

詭弁でも屁理屈でもよいから、それだけで生きていければ、それこそが至上のアリストスであるのかも知れません。

 

「アリストス1」

https://blogs.yahoo.co.jp/shigetage/34013685.html

 

「この意識がどこから来たのかといえば、プラトンのせいでも、公孫龍のせいでもない。ヒトの意識が『同じ』という機能を持ったからこそ、動物の時代からあったはずの感覚所与と衝突するだけのことである。それならこの問題はたかだか二十万年来の問題だというしかない。現代人が発生し、現代人のような脳を持ってから、ほぼ二十万年経っているからである。」

(養老孟子「遺言。」)

 

「サピエンス 1」

https://blogs.yahoo.co.jp/shigetage/42008432.html