ユヴァルの視線で、生物学的・人類学的に科学するならば、
自然界に自然に存在しないものは想像上の代物である
ということになるのかも知れません。
クロマニヨンからサピエンスに変化した人類が生きた世界に、
自然に自然界に存在していなかったもの。
それらはすべて「想像上の代物」であるらしいのです。
秩序も法律も、組織も倫理も良心さえも、サピエンスが自然に
アタリマエに生物学的に備わっていたものではなく、
ご都合主義的に想像上で作り上げたもの。
創ったのではなく、あえて、作ったと記させて頂きたい。
「産業革命以降の何千年もの人類史を理解しようと思えば、最終的に一つの疑問に行き着く。
人類は、大規模な協力ネットワークを維持するのに必要な生物学的本能を欠いているのに、自らをどう組織してそのようなネットワークを形成したのか、だ。
人類は想像上の秩序を生み出し、書記体系を考案することによって、となる。」
(ユヴァル・ノア・ハラリ「サピエンス全史」)
倫理も秩序も、神も仏も、法律も論理も、我々が本来もっていたものではないそうです。
それらはすべて「想像上の代物」。
なので我々が我々本来の、本当の幸福を享受しようとするのなら、
まやかしの倫理も秩序もある程度は切り捨てる必要があるのかも知れません。
「が、現実には、我々は現代に生きている。法律と秩序、社会常識と社会倫理に基づいた社会で生きているのだから、それらを無視すれば、かならずやそのしっぺ返しを受けることになる。」と思われるかたも多いのかも知れません。
そこがバランス。
「機能バランス」
https://blogs.yahoo.co.jp/shigetage/40491506.html
「バランス」
https://blogs.yahoo.co.jp/shigetage/40320736.html
そこに中庸の極意なるものが必要とされているような
気もしないでもないのです。
「この苦痛と快楽、そして愛と憎しみは、子供が最初に感じるものであって、あとから生じてくる理性としっかり結びついた場合に、徳となるわけである。」
(モンテーニュ「エセー」)
「幸福を正確に見つめることは、結果として、
不幸を正確に見つめることにもなる。」
(モンテーニュ「エセー」)
「幸福 ↔ 中庸 ≒ 徳 ↔ 不幸」
https://blogs.yahoo.co.jp/shigetage/40312990.html
「だが、大規模な協力ネットワークの出現は、多くの人にとって、良いことずくめではなかった。
これらのネットワークを維持する想像上の秩序は、中立的でも公正でもなかった。」
(ユヴァル・ノア・ハラリ「サピエンス全史」)
そりゃそうですよネ。
もともとにネットワークを構築した人々は、自分の都合の良いように、自分だけが満足すれば満足という人々なのですから。
それを「神が言った」とか「秩序」だとか「道徳」だとか、さも正義と正当性を主張した「決まり事」のようにでっち上げた代物だったと、ユヴァルは教えてくれているようです。
「この秩序は、そこから恩恵を受ける男性と、影響力を奪われたままにされた女性との間に、ヒエラルキーを生み出した。」
(ユヴァル・ノア・ハラリ「サピエンス全史」)
醜悪なる男たちが生み出した秩序にうまく順応しているように振る舞いながらも、したたかに自分らしさを失わずに、そのバランスと中庸の極意によって、のびのびとした精神生活を送るのが肝要であるのかも知れません。
我々はどのような境遇に置かれようと、どのような不幸に苛まれようと、けっして諦める必要はない。
我々は我々独自の精神性と情動・行動によって、
そこからかならず我々独自の幸福を見出し手にする覚悟と権利と義務と、そして勇気と自信と確信をもって、生き抜いて見せようではないかの心魂だけは、失わないものであると、信じていたいような気もしないでもないのです。
「いかなる不幸にも、かならず埋め合わせがある」
(セネカ「書簡集」)
「純粋にはなれない」
https://blogs.yahoo.co.jp/shigetage/40162011.html