サピエンス 14 | コラム・インテリジェンス

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透き通るような心が…ほしい…。

「ミツバチには法律家は必要ない。なぜなら、ミツバチは巣の規則を忘れたり破ったりする恐れがないからだ。」

(ユヴァル・ノア・ハラリ「サピエンス全史」)

 

サピエンスの脳にも、その容量には限りがあるようです。

狩猟民から農耕民さらには工業産業経済人となったサピエンスにも、もともとはミツバチ程度の容量のデータしか、DNAは伝えることができないそうです。

 

DNAが伝えられる容量以上のデータを、ユヴァルは「想像」という言葉で表現します。

「企業」「神」「法律」等々は、後付けで権力者の都合の良いように創作された「想像」の産物。

「企業」「神」「法律」等々は、権力者が自分たちの都合の良いように、彼らの頭のなかで「想像」されたものであることから、ユヴァルは、それらを評して「想像」という蔑視したような言葉を用いているのかも知れません。

 

ミツバチの世界には「想像」された「企業」「神」「法律」等々は。必要もないから存在もしない。

なぜなら、ミツバチには「神」「法律」がなくても、生きるために、巣の規則を忘れるような愚か者も存在しないからなのかも知れません。

 

「女王バチは掃除係のハチを騙して食べ物を巻き上げたりしないし、掃除係のハチたちも賃上げを要求してストライキを始めたりはしない。」

(ユヴァル・ノア・ハラリ「サピエンス全史」)

 

サピエンスの世界では、国民を騙して税という名のもとに金を巻き上げる政府が存在するので、国民も賃上げというストライキを敢行せざるをえぬようです。

 

単純に文武両道、知と武を備えし男が君臨していた時代には、正義も誠も自然に存在していた。

が、弱っちく醜い男たちが集団で支配し始めた時代からは、秩序という名の「想像」も必要をされてきたのかも知れません。

 

弱っちく醜い男たちが「想像」した貨幣、経済、秩序、法律等々が機能しだしてからは、強盗、強姦、横領、汚職等々も派生するようになったようにも思われなくもないのです。

 

なぜなら、ミツバチの世界には賃上げのストライキも存在しないし、強盗、強姦、横領、汚職等々も、存在しないから。

 

ミツバチの世界には、女王バチが君臨してくれている。

が、サピエンスの世界では、女王バチに匹敵するような男が存在しない。

 

情ない弱っちい醜い坊ちゃん議員が君臨するよりも、女王バチのような女性たちが台頭してくれることが望ましいような気もしないでもないのです。

 

「サピエンスの社会秩序は想像上のものなので、人類はDNAの複製を作ったり、それを子孫に伝えたりするだけでは、その秩序を保つのに不可欠な情報を維持できない。」

(ユヴァル・ノア・ハラリ「サピエンス全史」)

 

サピエンスの秩序は想像上のものである。

サピエンスの世界はまやかしと虚飾に満ちている。

なのでそのような秩序や常識、倫理や慣習に縛られ過ぎてはバカバカしいだけなのかも知れません。

 

「秩序というと聞こえは良いが、

不道徳な悪の取り決めにすぎない」

(ルソー「社会契約論」)

 

「国家とは、

責任は取りたくない。自分だけ良ければ良い。

が、権力だけは絶対欲しいと考えた醜悪な人間が

権力を持ってしまった結果の象徴である。」

(ミシェル・フーコー「狂気の歴史」)

 

「騙されない」

https://blogs.yahoo.co.jp/shigetage/40649742.html

 

「女性は

世間に認められている生活の掟をこばんだとしても、

 少しも悪いことはない。

これは男性が女性の同意なしにきめたものだからである。」

(モンテーニュ「エセー」)

 

「享受」

https://blogs.yahoo.co.jp/shigetage/40257357.html

 

そもそもに、我々は余分なものを埋め込まれ過ぎている。

人を支配したいという輩たちによって、

我々はよからぬ啓示、暗示、まやかじを押し付けられてしまっている。

 

埋め込まれ過ぎていることにも、押し付けられていることにも、

気付かぬくらいの愚か者にしつけられてしまっているのかも知れません。

 

「現代の権力は

人に『自分らしくあれ』と押し付けているのだ。」

(ミシェル・フーコー「狂気の歴史」)

 

「みんな囚人」

https://blogs.yahoo.co.jp/shigetage/40092351.html

 

「自分らしく」を薦めれば、ヒトは怠け者になる。

「個性を大切に」などと薦めれば、

ヒトは思い込み、思い上がりだけで生きてしまう。

 

結果、痴呆な国民、愚かな国民ばかりになれば、

権力者の地位は安泰、思う壺という仕組みなのでしょうか。

 

我々は常識、既成概念に惑わされることなく、

己のために己を磨き、己の幸せのためにも

他者をも大切にする人間であるべきなのかも知れません。

 

自分で自分の思い通りに自分を律し、

自分で自分の思い通りの情動を心がける。

 

その結果にこそ、真の個性、真の人間性が

表象されていくような気もしないでもないのです。

 

「私は踊るときは踊るし、眠るときは眠るのだ」

(モンテーニュ「エセー」)

 

「中庸」

https://blogs.yahoo.co.jp/shigetage/40314383.html