欲望と対決する。
欲望とか煩悩を消滅させるパワーとか、
その意志も、僕には欠けているようです。
せめて、考えないようにするとか、
無想・無念・無心、そして無双くらいが、
僕には合っているようにも思われなくもないのです。
「欲望を満たす自由は、ヒトを野蛮な欲望の奴隷にしてしまう」
(エマニュエル・カント「純粋理性批判」)
「カントの自由」
http://blogs.yahoo.co.jp/shigetage/39974989.html
仏教でいうところの煩悩・欲望は、
カント三部作と呼ばれる「純粋理性批判」、
「実践理性批判」、「判断力批判」にすべて、
その解決策が提示されているようにも思われます。
「欲望を満たす自由は、ヒトを野蛮な欲望の奴隷にしてしまう」
(エマニュエル・カント「純粋理性批判」)
欲望が野蛮なのかどうなのかはわかりません。
が、野蛮にはなりたくない。
野蛮になりたくないから、欲望の対処法を
学ばねばならなくなってしまったのかも知れません。
「自分の欲望を自分で抑えられるのが真の自由である」
(エマニュエル・カント「判断力批判」)
「自由不自由どっこいしょっ」
http://blogs.yahoo.co.jp/shigetage/40017293.html
欲望を抑えるのは無理。
欲望を消滅させるのも無理。
となれば、欲望を誤魔化す以外にはないような
気もしないでもないのです。
なので無念・無想とか無双を目指すように
心がけようとしているのかも知れません。
世界には、いや日本の中にでも、
己よりも不幸な人々は、たくさんいるようです。
不幸な人々を思いやり、彼らの現況を考えれば、
今の自分が恵まれている、あるいは幸福であることに、
気付かされるようにも思われます。
当面の衣食住に困窮せぬだけ幸いである。とか、
ネットもメールも使用できる環境にいる。とか、
アタリマエに呼吸できたり、
アタリマエに歩行できることの幸いを
堪能しようではないかの心魂も目覚めてくるような
気もしないでもないのです。
我々は、自分の欲望を自分で処理して、
欲望を不幸の元凶から反転させ、
幸福感を得るためのツールとして活用することが
肝要であるのかも知れませんネ。
「欲望に身を任せて身を滅ぼす自由も存在するのなら、
自分で考え、自分の理性で、
その欲望を制御する自由も存在する」
(エマニュエル・カント「実践理性批判」)
「カントの自由」
http://blogs.yahoo.co.jp/shigetage/39974989.html
自由であることの幸せは、
欲望を操ることのできる幸せ。
欲望バランスと欲望回避、
我々は常に自由であるべきであるのかも知れません。
飲みに行きたい欲望、愛しい人を探求する欲望。
愚かでスケベで、還暦過ぎたジジィでもある僕も、
常に低レベルな欲望との対決を、
余儀なくされているような気もしないでもないのです。