幸せを実感しているときに、
何の不安も感じない人は幸いであるのかも知れません。
僕は還暦過ぎたくせに、この歳になっても、
幸せを実感してしまうと不安に駆られます。
幸せを追い求めていられる人は、
幸いであるのかも知れません。
僕は還暦を過ぎた、この歳まで、
幸せを真剣に追い求めたことがないような
気もしないでもないのです。
社会人になる前は、学問に武道にスポーツに、
挙句の果てには不良社会でのトップを維持するために、
夢中になり過ぎて、何が幸せで何がそうでないのかさえ、
考えようともしていなかったような気も致します。
社会人になったらなったで、
目の前のプロジェクトと、それに必要な知識と情報収集、
その他諸々に夢中になり過ぎて、やはり何が幸せで
何がそうでないのかなどは、考える余裕さえ
なかったような気もするのです。
で、何が幸せで何がそうでないのかなどは
考えぬ時間こそが幸せであり、
何が幸せで何がそうでないのかなどと考え始めることが
幸福から遠ざかる起因となってしまう
ようにも思われるのです。
夢はある。
が、夢に捉われすぎると、
目の前の幸福を実感できずに
幸せを取りこぼしてしまう場合もあるのかも知れません。
それでも夢は実現させたい。
実現させたいと思う心の状態が、
最も幸せな状態であるような気もしないでもないのです。
夢は実現しない方が良い。
夢が実現して、幸福を実感して不安になるよりは、
夢と現実の差異に悩み、それでも夢を
諦めきれずにいる状態こそ、
幸せの絶頂であるといっても
過言でもないようにも思われるのです。
幸せを実感しているときに、
何の不安も感じない人は幸いであるのかも知れません。
今、幸せを実感できないでいる人は、
幸福の絶頂期に感じる不安に苛まれる地獄から
解放されているぶんだけ幸せであると
いえないでもないような気もしないでもないのです。
が、幸せの絶頂期に、何も不安を感じぬようでは、
その幸せはうたかたとなってしまう可能性が
大きいようにも思われます。
「うたかた」
http://blogs.yahoo.co.jp/shigetage/41616656.html
不幸である時には、幸福になってしまってからの、
幸福期の不安地獄を味わうまでの
今の不幸が幸いであるといえるのかも知れません。
幸福を実感しているときには、
不安材料を吟味し検討し、戦略を用意して、
今の幸せを思う存分堪能できるようにすべく努力も
必要となるような気もしないでもないのです。