オックスフォード・プレゼント | コラム・インテリジェンス

コラム・インテリジェンス

透き通るような心が…ほしい…。

「ニーチェは正しい。

ゆえに人間は神に頼らぬ存在である。

なぜなら神を拠り所にすれば、現実は見えてこない」

(コリン・デクスター「ルイス警部」)


「美知武習録144(ニーチェ)」

http://blogs.yahoo.co.jp/shigetage/40844828.html


同じようなセンテンスで

かなり辛辣なものもありました。


「人間はコンピュータと一線を画さねばならぬ。

 コンピュータに関わり過ぎれば人間は稚拙となり、最後には己が稚拙な愚者であることにさえ気づかぬ醜悪なる生き物と化す」(マーク・ゴードン「クリミナル・マインド」)


そういえば、コンピュータが普及してから

思い上がり・世間知らず・お門違いな上から目線の人々が著しく増殖しているようにも思われます。


「己のギャランティの出所くらいアタリマエにオトナに理解してほしい。」

「金の出所」

http://blogs.yahoo.co.jp/shigetage/40102011.html


私事、最近はケーブルテレビで過ごす時間が増え、海外ドラマ、ドキュメント系等々、悪い意味で時間が足りなくなってきているような気もしないでもないのです。


が、海外ものに触れるたびに感じることは、自分の国が幼稚であるのかも知れないということ。


といっても最近では自分の国の放送局が流す番組を、それが国営でも民放でも、まったく見なくなってしまっているので、日本の番組が幼稚であるのが正確な現実であるのかどうなのかさえまったくわかぬどころか、わかるつもりもなくなってきてしまっています。


ドキュメンタリーでもドラマでも、海外ものは引用が多い。一人が何かを引用すれば、他の誰かが、その引用の出典を言い当てる。さらには他の誰かが、その出典から他の作品の引用を挙げる。


この知的会話スパイラルが心地好く、妙に自分も賢くなったような気分に誤解曲解させてくれるのです。


で、コンピュータと幼稚・稚拙さの関係はさておき、最近の友人たちとの酒席での会話。


A「日本の大学は世界の大学と比較すると、かなりレベル低いらしい」

B「それは事実」

C「大体、本格的ブッフェも体験したことがない人間が、バイキングを料理形態の正式名称の一つだと思い込んで、俺が『ブッフェ』といえば『ああ、バイキングね』などと知った風な口調でわざわざ言い直すヤツが存在する国に、未来があるわけもない」


神に頼るか頼らぬかの問題以前の問題、コンピュータがどうとかこうとか以前の問題であるようにも思われました。


A「本格的バーベキューも体験したことのないヤツが、いきなりBBQと連呼。挙句の果てにはオックスフォードでグリルと称される料理形態をBBQと思い込んで平気で連呼する」

B「公有地でグリルを楽しんだ家族が「BBQ帰りにゴミを他者の私有地に捨てた」などと、わけわからぬニュースも流れていた」

C「マンハッタンでバーベキューといえば豚の丸焼き、日本でいうBBQはどこの国に行っても通用し難い」

A「ケンブリッジでさえ、BBQグリルの区別はできる」

B「いちいちケンブリッジをバカにする発言はやめろ」

C「アイビーリーグがMITをバカにするようなもの」

B「いやMITがアイビーリーグをバカにするようなものだろう」


僕「MITで思い出した。ビージーズの『マサチューセッツ』歌いに行こう」


A「いまや、ビージーズもMITもマサチューセッツが何処にあるのかも知らないやつがBBQだとかぬかしている」

B「ネットスラングが横行して『スイーツ』を正式な商品カテゴリーの一つだと思い込んでいるバカ」

C「それをいうなら、フランスに行ったこともない、住んだこともない、フランス語も話せない輩が『パティシエ』を名乗る」


僕「スイーツで思い出した。ニール・ダイヤモンドの『スイート・キャロライン』を歌いに行こう」


A.B.C「お前はオヤジかっ」

僕「いや、俺たちはオヤジではなくジジィなのだ」

A.B.C「お前は俺たちの会話に興味がないの?」

僕「「なにも知らないでいるのが、もっとも幸福な人生なのだよ」

A.B.C「・・・エラスムス!」


「なにも知らないでいるのが、もっとも幸福な人生だ」

(デシデリウス・エラスムス「痴愚神礼賛」)


「般若とエラスムス」

http://blogs.yahoo.co.jp/shigetage/40121798.html