美知武習録158(ニーチェ) | コラム・インテリジェンス

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透き通るような心が…ほしい…。

「自分の主人となれ」(ニーチェ「漂白者とその影」



アタリマエに自分の主人は自分ですよね。

自分の君子も自分です。



孟子老子マキャベリなどが述べる「君子」はアタリマエに自分の主人は自分であるという大前提に基づいて述べられているようです。

公共の場では大声で話さない。人の迷惑になりそうなことはしない。すべて自分の主人である自分が自分を管理できているのかどうかという問題にかかっているようです。



老子──「何もしないことを為す」

コラム・インテリジェンス「生き抜く思想」




自分を守るのも自分なら自分を貶(おとし)めてしまうのも自分であるようです。



コワいのは、自分で自分を貶めていることに気付かぬ事。

自分ではアタリマエにやっていることが、実は自分を貶めているということに気付かねば、その先には堕落と奈落の底だけが待っているのかも知れません。



「勘違いしてはならない。自制心という言葉を知っているだけで、なにがしか自制できているわけではない。自制は、自分が現実に行うそのもののことだ。」(ニーチェ「漂泊者とその影」)



公共マナーという言葉を知っていても、現実に足を組んで座っていたり足を投げ出して坐っていたりしていたのでは、なにがしかの自制をしているということにはならないようです。



「一日に一つ、何か小さなことを断念する。最低でもそのくらいのことが容易にできないと、自制心があるということにはならない。また、小さな事柄に関して自制できないと、大きな事柄に関して上手に自制して成功できる筈もない。」(ニーチェ「漂泊者とその影」)



男選びなどというカテゴリーもあるようです。

公共の場で浮かれてはしゃいで大声を出しているような人、公共の場で足を組んだり投げ出して坐って、他者の迷惑になることを自制できぬ人などは、仕事も恋も家庭も守ることができぬ人なのかも知れません。



「自制できるということは、自分をコントロールできるということだ。自分の中に巣くう欲望を自分で制御する。欲望の言いなりになったりせず、自分がちゃんと自分の行動の主人になる。ということだ。」(ニーチェ「漂泊者とその影」)



なんだかかなり難しそうな試練とも思われますが、それでもニーチェは逃げ道も用意してくれているようです。


「一日に一つ、何か小さなことを断念する。」


欲望を抑え込むことばかり考えていれば息苦しくなってしまうけど、一日一つ、何か小さなことを断念することから始めてもよさそうな気にもさせてくれているのかも知れません。



小さな断念が出来ぬひとが大きなことができぬのなら、小さなことから始めれば大きなこともできる可能性もないとは言い切れない。



一日に一つ、何か小さなことを断念する。


これを繰り返していれば、やがては欲望全体も制御できるようになるのかもしれません。



コワいのは、自分が大声で話していることや足を投げ出していることの意味を認知できないでいる場合。

こういう場合はまず、その行動の意味の認知から始めれば、やがては自制できる、自分をコントロールできる人間になれるのかも知れません。

とりあえず今夜は「もう一軒」を断念することから始めようかとも思っております。