「誰にでも一芸がある」(ニーチェ「人間的な、あまりに人間的な」
僕にはそんなものはないのではないかとも思われます。
「どんな人にも一芸がある。その一芸は、その人だけのものだ。」
(ニーチェ「人間的な、あまりに人間的な」)
自分には一芸もないのが真実であるとするのなら、誰でも持っている一芸を持っていないことが個性になるような気もしないでもないのです。
一芸も持ち合わせていないということが一芸となる。
一芸も持ち合わせていないということを一芸とするには、どのようにすれば良いのか。
それを見出すための知であり誠が必要であると考えてきました。
「それを早くから知っていて、充分に活かして成功する人もいる。自分の一芸、自分の本質が何であるのか、わからないままの人もいる。」(ニーチェ「人間的な、あまりに人間的な」)
自分の一芸と本質が同質のものであったのなら、これは単純に活かし易いとも思われます。
が、自分の一芸と自分の本質が異質のものであったのなら、この調整とか活かし方も変わってくるようにも思われるのです。
手先が器用という一芸を持つ人の本質が犯罪者であったなら、これはもう盗み泥棒の道へと進む以外にはなくなってしまう可能性もないとは言い切れません。
そこのところの、善への調整とか変換も難しいのかも知れません。
「それを自分の力のみで見出す人もいる。世間の反応を見ながら、自分の本質が何だろうかと模索し続ける人もいる。」(ニーチェ「人間的な、あまりに人間的な」
早期に自分の才能と本質を見つけ出せた人は幸いであるのかも知れません。
が、そうでない人、模索し続けなければならざるを得ぬような人は、どうすれば良いのでしょう。
見出すことが目的ではなく、模索し続けることこそが、真の目的であるような気もいたします。
知と芸と才を、真と義と誠を、模索し続けることこそ、我々の人生を豊かにしてくれる重要なファクターとなってくるのではないかとも思われます。
「いずれにしても、くじけず、たくましく、」(ニーチェ「人間的な、あまりに人間的な」
そして、しなやかに。
たまに自分でコピーをとろうとすれば「コピー機にさわるな!」と部下の女性に叱られ、
たまに自分でファックスしようとすれば「何してる?」と部下の女性に疑われ、
「何一つ、自分ではできぬ男」というレッテルを部下の女性たちに貼られていた僕としては、
くじけず、たくましく、そして、しなやかに生きるしか生き延びる道もなかったようです。
「果敢に挑戦を続けていけば、自分の一芸がわかってくるはずだ。」
(ニーチェ「人間的な、あまりに人間的な」)
自分の一芸を知ることが目的ではなく、くじけず、たくましく、そしてしなやかに、果敢に挑戦を続けていくことが大切であるようにも思われます。
そうすれば最悪、自分の一芸を見出すことができなくても、くじけず、たくましく、そしてしなやかに果敢に挑戦し続けることができるという芸を身に付け見出すことができたという結果を得ることはできるのではないかとも思われるのです。
芸を見いだし磨くということは難しい。
芸は見出すことも難しい。
芸を磨くには見出すことから始めなくてはならない。
ゲイもバイセクも理解はできるし受け入れることもできる。
が、ゲイもバイセクも見出すことも難しく、ましてやゲイもバイセクを磨くことはもっと難しいのかも知れません。
「誰にでも一芸がある」(ニーチェ「人間的な、あまりに人間的な」)
誰にでもゲイっぽかったりバイセクっぽいところはあるのかも知れません。