生きて行くには覚悟がいるようです。
人生には覚悟が必要なようです。
「それほどの覚悟などしたくない。どれほどの覚悟かはわからないけど、どちらにしろ覚悟などはいらない」という覚悟をなさったかたには、それなりの人生。
そうではない人には、それとはまったく真逆のステキな人生が待ち受けているようです。
「学(がく)と云(い)うものは進(すす)まざれば必(かなら)ず退(しりぞ)く。」
(吉田松陰「講孟列記」)
スポーツでも武道でも学問でも、なぜかは解明されてはいないけれど、進まなければ後退するしかないらしい。
一日や二日なら、どうということもないけれど、一日でも休めば二日休みたくなる。
それが何日も続いてしまえば、もう後には戻れない。
なので日々のエクササイズからは逃れることができなくなってしまうようです。
松陰の云う「覚悟」とは、この「覚悟」のことを指し示しているらしい。
惰らない覚悟、怠けない覚悟がなければ、人生はどんどん悪い方へと後退を余儀なくされてしまう。
気が付いたときには修復不可能、やり直しの効かぬ状況にまで追い込まれてしまっているというのが、人生というものの厳しい所でもあるのかも知れません。
が、それを怠らぬ覚悟さえ、自分自身で決めてしまえば、いくらでも道は開けてくるのも人生。
覚悟をするかしないのか、それは自分自身で選べるというわけだそうです。
「少(しょう)にして学べば、即(すなわ)ち壮(そう)にして為すこと有り。壮にして学べば、即ち老いて衰えず。老いて学べば、即ち死して朽ちず。」(佐藤一斎「言志四録」)
松陰も、松陰の門下生たち──伊藤博文、高杉晋作等々──も西郷隆盛たちも、会えば合い言葉のように唱えていた文言だそうです。
覚悟を確認し合って、自分自身をも奮い立たせるための合い言葉。
このような仲間──志士たち──が存在した時代は素晴らしい。
──少年のときに学んだものは壮年になってから役に立つ。壮年のときに学んでおけば老年になっても衰えることがない。老年になっても学び続ければ死んでも悔いは残らない。──
体力には限界もあるらしいけど、学ぶことには限界がないらしい。
が、最近は、その限界も感じています。
ボケるしトボケるし、食い気と色気だけが残され、そのくせ怠けるダラけるゴミ箱も蹴るではつまずいて痛い思いばかりしている。
惰性という現象に頼るしかないとも思われます。
私事、還暦までは何とか自分なりに精いっぱい生きて来たので、あとは惰性という法則に頼りたい。
老年になっても学ばなければならないのなら、死んでも後悔してもいいとも思ってしまう。
松陰門下に僕のような者がひとりでも混じっていたら、明治維新は起こらなかったとも思われる。