松陰哲学の基本は孟子と陽明学にあるといわれているようです。
孔子・孟子・老子──コラム・インテリジェンス「踏みにじられた摂理」
陽明学とクルト・レヴィン──コラム・インテリジェンス「葛藤から幸福へ」
「強恕(きょうじょ)して行(おこな)ふ、仁を求むることこれより近きはなしとは、何等(なんら)の親切の教ぞや。大儀なることを勉強してすると、人の情を思ひ遣(や)りて己の行ひをするとより学問は始まることにて、是れ強恕の道なり。」(吉田松陰「講孟箚記」)
──強恕、つまり大いに努力し、まごころから人をおもいやることこそ仁を求めるには最も近い方法である、とは本当に親切な教えであるなあ。骨の折れることを強いて行うこと、また人の気持ちを思いやりながら自分が実践することから学問は始まるのである。これが孟子のいう強恕という生き方である。──
松陰は孟子の「強恕(きょうじょ)の教え」に対して「なんとも本当に親切な教えである」と感心しています。
本当の真心とか人を思いやる気持ちというものは、知識と経験──知識と経験の宝庫である学問──を身に付けていなければ、それは「大きなお世話」とか「勘違いの親切」「思い込みによる押し付け」「無責任な関与」となってしまう場合もあるようです。
学問は誰のために学ぶものでもない。
学問は、自分が人に本当の意味の真心、本当の意味での思いやりを示せるような人間になるために為されるものであると思われます。
人に対して本当の意味の真心、本当の意味での誠意を示したいのなら、学問をしなければ、それを実践することは難しいようです。
なので松陰は、学問を疎かにする人というのは、本当の真心、本当の誠意を、人に示したいと願う心が少ない人であるから蔑むべきであると述べているようです。
貧困にあえぐ人がいれば、経済的援助が必要になります。
無知ゆえの不幸に見舞われてしまった人には、惜しげもなく知恵を分け与えるべきだそうです。
自分自身が学問を身に付けていなければ、誰かの役に立つことも難しくなってしまうようです。
他者に親切に、真心と誠意で接したいと、真剣に願う気持ちがあるのなら、学問をせずして何ができるかというのが、松陰の理念になっているのかも知れません。
「強恕(きょうじょ)の道」・・・
あらためて考えさせられる教えであるようです。
が、現実的には、愚かで還暦な僕は、「強恕(きょうじょ)の教え」よりも「京女・強女の教え」に従うことを優先するように強要されているようです。
つくづくに・・・自分が嘆かわしい・・・。