水掛け論をしよう | コラム・インテリジェンス

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透き通るような心が…ほしい…。

最近は水掛け論をしている人々を見かけなくなったような気がします。

水掛け論は、どこまでいっても堂々巡りのような議論の応酬。
水掛け論から抜け出すためには論理的思考が必要になるようです。

が、最近では、この論理的思考、論理的な議論が疎まれ、
結果として水掛け論をも避ける傾向が強まってしまったようにも思われるのです。

お腹を空かした二人がいます。
A「お腹が空いた時には、やっぱりカレーでしょ」
B「いや、お腹が空いたときには、何といっても牛丼でしょ」

A「カレーをいっぱい食べればお腹もいっぱいになるから、
 お腹が空いた時にはやっぱりカレー」

この状態は「循環論法」と呼ばれ、最も稚拙な論理法として取り上げられているようです。
「お腹が空いている時はカレー」という命題と「カレーを食べればお腹がいっぱいになる」という根拠が「お腹の状態」と「カレー」というキーワードで一致してしまっています。

これではどこまでいっても「お腹が空いた」と「カレーはお腹いっぱいになる」という循環から抜け出せることはありません。

本来、論理的には「どの程度の空腹なのか」と「カレーと牛丼の差異はどこにあるのか」を明確に述べ合わなければならないのですが、この二人はそれを避けてしまっているようです。

近頃では友人同士の議論も、この辺りで終結してしまうようです。
水掛け論にまで持ち込まない。争わないのが真の友情なのか、議論を白熱させて切磋琢磨していくのが真の友情なのかはわかりませんが、現代人は日常から論理的思考とか論理的議論を避け続けてしまっているようにも思われます。

欧米では論理的議論ができる相手こそ、真の友人であるという概念が発達していますが、日本においては議論は争いのもとという観念から、論理そのものまでをも遠ざけてしまっているのかも知れません。

が、これでは切磋琢磨どころか、個としての向上も期待できぬ環境を、我々みずからが作り挙げてしまっているようなものではないでしょうか。

自分で自分の考えに捉われていないか、自分の考えが正しいのか否かの疑問を解決する方法の一つとしても、自分の考えが「循環論法」に陥っていないかどうかを検証して見ると、面白おかしく楽しめるような気もいたします。

「はじめに結論ありき」的な循環論法。
A君は自分の「カレーが食べたい」と前提条件を命題として、根拠である「空腹」という状態を結び付けてしまっています。

前提条件、命題、根拠が自由自在に設定されているかどうか、自分で検証すれば面白いように自分の思考の稚拙さと未熟さが明らかになってしまう場合も多いようです。

いや、これは愚かで還暦な僕に限ったことだけなのかも知れませんが、
「僕は愚かである」から「還暦まで生き延びて来れた」という論理も成り立つのかも知れません。