タイトルはバルタザール「賢人の知恵」のなかの言葉。
「かかわる相手の気質を見分けることはとても役立つ。
内面がわかれば行動を予測できるからだ。
憂鬱なタイプは悪い方に考える傾向がある。
悪口をたたく人は中傷に敏感だ。
不幸は、良いことを期待できない人を見つけてやってくる。
感情が激しく昂ぶりがちな人は理性を保って話ができず、
真実ではないことを話すかもしれない。」(バルタザール「賢人の知恵」)
バルタザールは17世紀スペインの修道士。
彼がどれほどの知識を持っていたのかはわからない。
が、400年の時を経て、未だに読み継がれているのにはわけがあるのだろう。
彼が主張し続けたのは、冷静な視点で現実を見つめ、
思慮分別と洞察力をもって柔軟に物事に向き合うこと。
ネットやテレビ等々、情報が氾濫し、世の中が恐ろしいほどの速さで移り変わっている現代において、
自分を見失わずに成功を手にするためにはどうすればいいのか?
そのヒントがたっぶり詰まっている著作であるらしい。(ディスカバリー編集部記より)
「顔色を読み取る術を身に付けよう。顔には本心があらわれる。
ひっきりなしに笑っている人は浅はかだし、
うわさ話が好きな人は単なるおしゃべりか詮索好きだから避けよう。
醜い人は、自然の仕業だと思っているため、自然に文句を言ってけなしがちだ。
こういう人に期待してはいけない。」(バルタザール「賢人の知恵」)
バルタザールのいう「醜い人」の定義はわからない。
「醜い人」にも性差、容姿の違い等々、いろいろある。
私事、女性の「醜い人」は存じ上げないし、わからない。
が、男の「醜い人」なら、少しは思い当るような気もしないでもない。
醜い男は、必要以上に容姿に拘り、必要以上の「おしゃれ」を表象する。
醜い男は、アタマも悪いのかも知れません。
どう見ても日本人、どう見ても二枚目ではない男が、
欧米の二枚目のヘアスタイルだとかファッションを取り入れているのは滑稽でさえある。
おサルさんでも、ライオンの真似をするサルはいない。
ゾウさんでも、ウサギさんの真似をするゾウはいない。
己を知り、価値観の優先順位を理解しているからだ。
己を知らず価値観の優先順位を理解できぬ男は、必要以上に容姿に拘り、
どう見ても似合わぬファッションに身を包む。
ケンカの弱い男が、いきがった態度とファッションで身をかため、
己の鎧としているようなものなのかも知れません。
ペルソナは楽チンではない。
「ものまねメイクの落とし穴」
「また、美しさと愚かさは表裏一体であることが多いことを知っておこう。」
(バルタザール・グラシアン「賢人の知恵」)
醜美が表裏一体であると同時に、善悪、人の性格、品性さえも、
表裏一体であるのかも知れない。
ココで批判的なことを書いている愚かなオジさんも、
愚かなオジさんの批判の対象となってしまっている人々も表裏一体。
先日、40代前半の男性と会った。
彼はどうみてもブオトコであるけど、ヘアスタイルからファションまで
バリバリに決めていた。
が、整髪料とオーデコロンの匂いに混じって、
ちょっとした拍子に香る加齢臭のような汗臭さのような匂いには辟易とさせられた。
私事、無味無臭の男であると評されてきた。
が、それが器質的なものなのか、シャワー好きだからなのかはわからない。
先日の彼には、整髪よりもファッションよりも、なによりもシャワーの頻度を心掛けて頂きたい。
是非、お願いしたいのだ。
あの、彼との時間の、僕の苦痛は言語に尽くせぬ。臭かったのだ。
僕に対する無味無臭という評価は、
「かもしれない」「らしい」「思われなくもない」などという言葉の乱用に基づいているらしい。
「気もしないでもない」「思われなくもない」は二重否定。
結局何も結論を述べていないに等しい。
周囲の人々は僕の言動をみて、とらえどころのない、その真意のわからぬ男という批判をこめて、
僕を「無味無臭の男」と評していたらしい。
先日の彼は、たいへんわかりやすいと思われるような男であった。
それはいい。それは素晴らしいことなのかも知れない。
が、僕が繰り返しても繰り返しても、どうしても彼にお願いしたいのは
「入念にシャワーを浴びてほしい」「シャワーの頻度を上げてほしい」ということ。
バルタザールは「美しさと愚かさは表裏一体」という。
「くさい」と思った僕の彼との時間は「楽しい」でもあった。
くさいと楽しいも表裏一体であるのかも知れません。
美しくはないであろう彼と、愚かなオジさんな僕。
彼の「美しくはない度数」は、僕の「愚かさ度数」により相殺される。
人の醜美は変化する。が、やっぱりエネルギーは不滅であるらしい。
「恋愛定理」