ライク・ア・ダイヤモンド | コラム・インテリジェンス

コラム・インテリジェンス

透き通るような心が…ほしい…。

「繊細な人」と「神経質な人」との違いが、わからない。

が、「先妻の子」と「神経質な子」の違いなら、わかるような気もしないでもない。


「神経質な人とは用心深くつきあう」(バルタザール「賢人の知恵」)


これもなんとなくわかるような気もしないでもない。


「繊細な性質は、友人や仲間とつきあうのには適さない。」(バルタザール「賢人の知恵」)


個人的には、大雑把な人と交流をもつよりは、

繊細な性質の人との交流のほうが好ましいようにも思われなくもない。


「すぐにくじける人は、むらがあって意気地がないことを自ら示しているようなものだ。」


これもなんとなくわかるような気もするけれど、

現実には「すぐにくじける人」との交流が成立したり、

長続きしたという記憶もないので、バルタザールのように決めつけることには

多少の剣呑を覚えないわけでもない。


「こういう人は、自分に対して何か悪いことが企まれているといつも思い込んでいて、

 会う人みんなが悪意を持っていると考える。まるで、ちょっと触れるだけでも

 すぐに傷ついてしまう眼のようなものだ。」(バルタザール「賢人の知恵」)


「自分に対して何か悪いことが企まれている」と考えるのは、

危機管理の意味では大切な心構えなのかも知れないが、

「いつも思い込んでいて」となると病的な繊細さ、神経質な人と

判断したほうが良さそうな気もしないでもない。


挙句の果てには「会う人みんなが悪意を持っていると考える」ようになれば、

それもほぼ確定的となってしまうのかも知れません。


が、「ちょっと触れるだけでも すぐに傷ついてしまう眼のようなものだ」な人は、

「ガラスのような心の」と表現されることもあるように、芸術家的繊細さを

兼ね備えている人として、美徳として扱われても良さそうな気もする。


「こういう人とつきあうときは、用心に用心を重ねて行動すること。

 動揺させたり気を悪くさせたりすることのないよう気を付けよう。」(バルタザール「賢人の知恵」)


「こういう人」に心配り、優しさ、思いやり、いたわりのを示すことは、

こちらとしても心地よいような気もしないでもない。


「たいていは自分本位で、自我を満足させるためならどんなことでもするだろうし、

 自分さえよければどんな危険でも冒すからだ。」(バルタザール「賢人の知恵」)


人間は所詮そのような生き物であるという考え方もある。


「ベンサムの快楽」

http://blogs.yahoo.co.jp/shigetage/39976992.html


聖職者であるバルタザールと哲人ベンサムの考え方の違いなのかも知れません。


が、個人的には、「神経質で繊細な人」を見下すようなバルタザールの姿勢よりは、

人間の本質、実際を見抜こうとするベンサムの姿勢のほうが

馴染めるような気もしないでもない。


「人間は所詮そんなもの」という辛辣な見方の先にある優しさ、寛容、受容という心魂にこそ

人間の心の美しさが見え隠れするようにも思われなくもないのです。


「対するこちらは、ダイヤモンドのような人を目指そう。辛抱強く確固とした

 丈夫で長持ちする人になるのだ。」(バルタザール・グラシアン「賢人の知恵」)


「対するこちらは」という視点がすでに自己と他者という狭義な姿勢を感じてしまう。


「般若オールマイティー3」

http://blogs.yahoo.co.jp/shigetage/39153335.html


キリスト教的相対的視線と仏法的全宇宙的視点の違いであるだけなのかも知れません。


が、我々としては、どうせならダイヤモンドを目指したいものではある。

たんに「目指したい」というのと「メザシ食べたい」とでは大違い。


そこには「辛抱強く確固とした、丈夫で長持ちする」心構えも

必要とされてくるのかも知れない。


メザシが食べたいと思うぶんには何の努力も知恵も必要ではないのかも知れないけれど、

目指すという行為には人としての技量も試されてくるような気もしないでもない。


そこがそもそも、メザシとダイヤモンドの違いかもしれないけれど、

僕のような愚かなオジさんとしては、

「ダイヤモンドを目指す」よりは「メザシを食べたい」のほうが、

楽チンであるようにも思われてしまうのです。