ヒトは
自分の善意と他者の善意を
無意識のうちに相対的にみてしまっている
場合もあるのかも知れない。
おおよそ
自分の善意は他者の善意よりも
上回っていると考えてしまう場合が
多いような気もしないでもないようにも思われなくもない。
「親切で心の広い人は、大勢の人々から善意を引き出すことができる。」(バルタザール「賢人の知恵」)
「親切で心の広い人」は、アタリマエに善意の行いも多くなるだろうから、
アタリマエに「大勢の人々から善意を引き出すことができる」らしい。
人の善意をアタリマエに善意と受け止めることができる人々
ばかりの世の中であったなら、このことはアタリマエのように思われる。
自分の善意と他者の善意がバランスよく保たれる。
が、ヒトがみんな「親切で心の広い人」になれるとも思えないような気もしないでもない。
「親切で心の広い人」になれていない人は、
「大勢の人から善意を引き出すこと」を考えれば、その戦略のひとつとして自分が、
「親切で心の広い人」になりやすいのかも知れません。
「人の上に立つ人はこのことを覚えておこう」(バルタザール「賢人の知恵」)
ずでに
人の上に立っている人こそ、このことを心掛けるべきなのかも知れない。
「君主論/マキャベリオジさんの現実的対処法」
が、そもそも、人の上に立とうなどと考える時点で、
その人の親切も心の広さも失われつつあるような気もしないでもないのです。
人の上に立つということは、自分から目指すべきではない傲慢で、
自分なりにアタリマエの生き方を実践しているうちに、
自然と周りが上に立たせてしまうという形こそ、望まれるべきであるとも思われる。
そもそもに、人の上に立とうなどと考える人間は好きになれない。
そこにエゴと醜悪な欲望を感じてしまう。
が、人の上に立つことなど考えもせずに、いや、むしろ、
人の上になど立ちたくないと考えている人が、
「人々から善意を引き出す」ために自分自身が切磋琢磨して
「親切で心の広い人」を目指すのは歓迎できるし、実践したいとも思われるのです。
「大勢を動かす力があれば、それだけ多くの善を引き起こす力もあるが、
仲間が欲しければ自分から仲間にならなければいけない。」
(バルタザール・グラシアン「賢人の知恵」)
善を引き起こしたいという欲望と、
仲間が欲しいという欲望がゴッチャになっている気もしないでもない。
僕の頭の悪さが原因なのだろうけど、
「大勢を動かす力」と「多くの善を引き起こす力」それに
「仲間をつくる方法」とが、鶏と卵の話のようにシンクロしてしまうのです。
「けちな根性で親切や思いやりを示そうとしない人は、
気高さや正義の対極そのものだ。」(バルタザール「賢人の知恵」)
ここは大いに納得。
僕は、どれだけ「けちな根性で親切や思いやりを示そうとしない人」であったのか。
それなのに、なにかというと「気高さや正義」を謳って来たのだから、
僕は自分自身の愚かさにつくづく嫌気がさしてしまう。
それでも「人の上に立つ人」を目指すような人間にはなりたくないし、
「親切で心の広い人」にはなりたいと思っている。
その結果「大勢の人々から善意を引き出すことが」できようができまいが、
そこまでは期待もせずに視野にも入れたくはない。
ただただ「親切で心の広い人」だけを目指す言葉として
このバルタザールの「愛想を良くする」というタイトルの内容を
受け止めておこうと思ったような気もしないでもないのかも知れません。