「友達何人できるかな?」とか
「友達の友達は皆友達」みたいなキャッチが
常套句のように扱われて久しい。
が、古来、友達の数の多さを奨励するような論説、格言、ことわざなどは少ない。
「多数の友を持つ者は、一人の友も持たない」(アリストテレス「j弁論術」)
我々が何気なく真であると捉えているものが、
実は軽薄な輩のキャッチである場合も少なくはないような気もしないでもない。
アリストテレスに異を唱えられる者は、プラトン以外には考えられないらしい。
プラトンに異を唱える資質の持ち主は、ソクラテス以外にはいないと考えられているらしい。
「友達何人できるかな?」とか「友達の友達は皆友達」みたいなキャッチを真に受けてしまうのか、
「多数の友を持つ者は、一人の友も持たない」のアリストテレスに信を置くのか、
それも人それぞれではある。
ちなみに前者は番宣であったり営業用のコピーとして創作され、
後者の「弁論術」は対ソフィスト、または論理の対抗手段として描かれていたらしい。
「同じ年は喜びの元」(アリストテレス「弁論術」)
同年代の人と過ごす時間は世代の違う人と過ごす時間よりは楽チンであるのかも知れません。
が、僕のように愚かなオジさんには年下の女性と過ごす方が楽チンであるから、
これは愚者には当てはまらず、賢者にのみ当てはまる言葉であるらしい。
「似た者はいつもでも」(アリストテレス「弁証術」)
これなどは「類は友をよぶ」などという我が国のことわざにもあるように、
似た者同士は、長時間いっしょに過ごしても苦にならないということなのでしょうか。
「蛇の道は蛇」(アリストテレス「弁証術」)
私事、ポン引き、客引き等の如何わしい人々に声を掛けられたことがない。
友人は「同業だと思われているのだ。『蛇のみちは蛇』」などというけれど、
「僕があまりにも高貴に見えるからなのだ」と応えている。
「鳥は鳥づれ」(アリストテレス「弁証術」
「旅は道連れ」に近いのかも知れません。
同類、同じ目的を持った者同士、同じ方向を目指す者同士は有難い。
最近は、友達の数を競ったり、友達との関係性を強調する風潮があるらしい。
このような現象は、現代社会の稚拙、現代人の孤独、現代の闇を象徴しているのかも知れませんね。
「友達何人できるかな?」とか「友達の友達は皆友達」みたいなキャッチを真に受けてしまうのか、
「多数の友を持つ者は、一人の友も持たない」のアリストテレスに信を置くのか、
それも人それぞれではある。
が、
「同じ年は喜びの元」(アリストテレス「弁論術」)
を理解しているとは言い難いオジさんの考えである。
愚かなオジさんの考えに賛同していただいちゃうのか、、
マスコミが営利的に創り出したキャッチに賛同してしまうのか、
ここもどうみてもアリストテレスに信を置くべきなのかも知れません。
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