ヒトの病気、老い、生、死について、
モンテーニュは、どのように捉えていたのか。
モンテーニュの生老病死についての考察は、
そのまま苦悩や苦難についての見解としても、あてはまるのかも知れない。
そのまま苦悩や苦難についての見解としても、あてはまるのかも知れない。
「おまえは病気だから死ぬのではなく、生きているから死ぬんだよ。」(モンテーニュ)
アタリマエに、生きているから病にも出会える。
アタリマエに、生きて来たから死にも辿り着ける。
アタリマエに、生きて来たから死にも辿り着ける。
「病気という手助けがなくたって、死は、お前をしっかりと殺すんだぞ。」(モンテーニュ)
事故で亡くなるかたも、天災事変で命を落としたかたもいらっしゃる。
殺人という犯罪の被害者にならずとも、病気や事故や天災で命を落とすこともある。
殺人という犯罪の被害者にならずとも、病気や事故や天災で命を落とすこともある。
「結石(病)というのは、なんとも巧みに、お前が人生に嫌気をさすようにさせてくれて、
じわりじわりと人生から引き離していってくださる。」(モンテーニュ)
モンテーニュは、持病の結石を利用して、少しづつ、生への未練を断ち切り、
まるでマラソンランナーがゴールした後の爽快感のような境地で、
人生に幕を閉じることへと向かわせてくれていると述べたかったのかも知れません。
そこには、達成感、満足感の他に、諦めの境地のようなものも含まれるであろうことは、
オトナな思考としては、避けても通れぬ定理のようにも思われなくもない。
オトナな思考としては、避けても通れぬ定理のようにも思われなくもない。
「オトナになるということは、そういうことであったのか」とオジさんは、
今更ながらに痛感、いや、鈍感、もとい、実感したりも、しないでもないのです。
「病気に慣れっこになるということも、将来によりよい希望をいだくのに役立っている」(モンテーニュ)
私事、人生では、医師から「死を免れたのは奇跡」と言われた病傷に
これでもかというほど遭遇させていただいた。
「おまえは、死を抱擁することはないけれど、少なくとも月に一度くらいは、
その手のひらにさわっているではないか。」(モンテーニュ)
その手のひらにさわっているではないか。」(モンテーニュ)
若かりし頃の己の行状を振り返れば、正に、その通りの日常を送っていた。
死の手のひらにも触れずに生きて来たよりは、触れた経験を活かす生き方のほうが楽チン。
「病は、習慣となることによって、私を訓練し、仕込み、鍛えて、慣れさせてくれる。」(モンテーーニュ)
病も怪我も苦難も、習慣となるほどに、その経験を積み重ねていくことで、学べるものも多い。
何事においても、初体験よりは、経験を積んだ者のほうが優位に立ち易いのかも知れません。
「病気も、時間というものを、健康と公平に分け合っている。」(モンテーニュ)
病気も健康も、歓びも苦悩も、幸不幸でさえ、片方にだけ目を奪われてしまえば、
もう片方が見えづらくなってしまうような気もしないでもないのです。
モンテーニュ「エセー(随想録)」第3巻13章『経験について』より。