近年の高齢化社会に、ふと考える。

最近、取材で「シニア」の方々と触れ合うことが多く、
またその年代の人たちの
目線になって、企画を練る日々が続いています。

今の若者が何を考え殺人や暴行など、
意味の持たない事件が止まない日々。
戦後、今の社会よりも数百倍「生きる」ことに貪欲で、
「生きる」ことの意味を深くかみ締めてきた「シニア」方々の
驚くべきパワーに圧倒されちまう。

今朝も京都まで「ゲートボール」の
サークルに取材に行っていきたけど、
朝早くから、小さな紅白のボールをゲートにめがけてスパークしている。
90歳を超えたおばちゃん(すんません。ここでは愛を込めておばあちゃんと
呼ばせて下さい)がグランドを走りまわる姿を
目線でおかっけても、なかなか追いつかない。

すっげな、このパワフルばぁちゃん。

グランドに勢ぞろいした、イキイキとした「シニア」の方々に
頭が上がらない。
俺が生きてきた3倍も生きているんだから、
そりゃ楽しいはずだよ。

俺達、なんだか間違ったいるような気がする。

今の現代も。
この社会が無造作なカタチで浮き彫りになりかけている日本列島も。
色んなものが。
彼ら、彼女達が築き上げてきた歴史の中に刻み込まれた常識。
それのカケラさえもなくなっているような気がする。

彼らは俺達のこの数十年後の未来のために、底辺から這い上がり、
肩を寄せ合い生きてきたんじゃないかな。
いろいろな苦しみも、人生の苦さも、
人生に少しのエッセンスを加えることによって、
自らの人生を楽しむ「コツ」のようなものを、
身体に染み込ませてさ。

なんか、かっこいいし、俺達かっこ悪いね。

ヤフートピに哀しい事件しか更新されない情報化社会。
それだけの批判はできないけど、
それを常識と捉え、肯定もすべきじゃないとかと思う。

あたなの近所に朝早くからラジオ体操をして、「今日も一日頑張るぞ!」
って体操をしているおじいちゃん、おばあちゃん。
絶対いるはず。

そのおじいちゃんやおばあちゃんの間に挟まれて、
ラジオ体操を元気にしてみる、夏の朝も悪くないんじゃないかな。

今まで、夕方の太陽しか見たことがないふくろうさん。
朝の太陽は気持ちがよく、あっちぃ~よ。

皮膚から涙がでるような汗がにじみでてくるしね。

そして、彼ら、彼女達は何よりも
今日という1日の大切を一番知っている。
「まだまだ、いきいき!」しなくちゃいけないのは、
本当は現代に生きている俺達なのかもしない。
次世代をカタチづくっている若者なんだ。

きっと。



子供の頃、何でも知りたがる子だった。

「これはどういう意味ぃ~?」とどんな人にも聞いていた。

知ってどうするわけでもなく、ただ知りたかった。

知ることによって、自分が変化するような気がしたから。

そして、物への興味が人へと変わっていったのが、初めて人を好きになったときだった。

それまで、愛されたことしかなかった子供が、

初めて人を好きになり、人のことを知る喜びを学んだ。

それから、数十年。

たくさんのことを知り、たくさんの人に出会い、それを糧に大人になってきた。

それでも、まだまだ知りたいことがたくさんで、もっと多くの人と死ぬまで出会い続けていきたい。

あの頃の子供のように、周りがなんでも教えてくれない変わりに、

自分で知る手段を覚えた。

それでも、人に聞いていたい。そのツールが俺を知ってもらえる手段だし、

相手のことを知る手段なんだよ。

子供が大人になりきれない「チルドレン」は社会に諦める。

大人が大人になりきれない「チルドレン」は社会の中で遊び場を見つける。

俺が子供の頃、探していたのは社会というルールの中で、「自由」という遊び場を作ることだった。

今が楽しいってことは、そーゆうことなんだ。
めでたいことで、29歳になりました。

歳を重ねる素晴らしさを感じます。

去年できなかったことが、今年はできるようになっていたり、(タイミングもあるが)

今年からやり始めたことが、来年にはカタチになっているだろうし。

色んな意味で「時間」の大切さを思い知らせてくれる。

そして、何よりも「おめでとう」と声をかけてくれる人たちが

周りにたくさんいることに感謝しまくり。

愛される喜びを感じれる人であり続けてたいですね。

愛する喜びを感じる人とこれからも繋がっていたいですよね。

人が人であり続ける。

俺が俺であり続けるために。

MISOZIにリーチとやらをかけてみます。

麻雀なんかしたことないけど、リーチをかけてみます。

人生にリーチ棒がないので、このブログがリーチ棒の代役になってくれるでしょう。