東日本大震10年目の記録 〜小学5年生だった僕がいま思うこと〜
2021年3月11日。明日、東日本大震災の発生からちょうど10年の歳月が経ちます。この10年間で人々の心情の変化や街の復興など、当時に比べると色々なことが様変わりしてきました。しかしその一方で、未だ癒えない傷を抱えて生活を送っている人がいることも事実です。そんな10年が経った2021年3月11日。この日を節目に、当時の記憶を振り返りながら10年たった「今」について感じることを記録したいと思います。東日本大震災の記憶を風化させたくない。そんな思い出で書きました。
震災発生当時、私は岩手県の沿岸地域にある小学校の5年生でした。その時は5時間目の授業を受けており、外はどんよりとした曇りだったことを覚えています。いつも通りの日常。今日もいつと同じように、放課後まっすぐ家に帰るだけだと思っていました。
しかし、いきなり教室が大きく揺れ始めました。机や椅子がガラガラと音を立て始め、先生が「机の下に隠れて!」という前に私たちは机の下に潜っていました。経験したことのない大きな揺れに、私は静かに恐怖していました。周りではクラスの女子生徒たちの泣き声、強がってふざけ始める男子生徒の声、窓ガラスや教室の扉が揺れる音などで溢れ、どの音も恐怖心を掻き立てるものばかりでした。
先生の指示で私たちは校庭に避難しました。地面が大きく揺れていました。こんなに揺れていたら津波が来るんじゃ。誰もがそう思いながら、そうなってほしくないと思い続けていました。私たちの地域は海に面しており、生徒の中には海の近くに住んでいる同級生も少なくはありませんでした。
その日は親の迎えを体育館で待ち、家に帰っても3日ほど停電の状態で過ごしました。電気のない生活は想像以上に辛いものでしたが、それでも津波で家を流された同級生達のことを思うと私が感じた辛さなどちっぽけなものでした。その日から、被災した人との関わり方というものがとても難しく感じるようになりました。
津波はたくさんの人や建物、思い出を奪い去りました。いつも当たり前に接していた親戚の人、よく友達と集まって遊んでいた駅、色々な思い出が詰まった街並み、全てがなくなりました。中には親を失った友人もいました。
特に忘れられない光景が避難所です。家を流された人たちは一時的に地域の体育館に寝泊まりしていました。私は時折、友達に会いに避難所に行っていたのですが、いまでも当時の光景が頭から離れません。避難所内の重苦しい空気、毛布をかけて雑魚寝をしている人々、忙しなく働く役場職員の姿。皆、様々な種類の不安を抱えていました。水も食料もありません。頑張って建てた家もありません。中には大切な人を失った人もいます。かける言葉など思いつくわけがありませんでした。私は何も失っていないのだから。
数日後、津波が引いた後を見に行きました。言葉が出ませんでした。そこにあるのは倒壊した家の残骸と家の土台となるコンクリート部分だけでした。崩れた我が家から貴重品を探す人が目に入りました。海は何事もなかったかのように穏やかでした。これだけのものを奪ったのに。
海は怖いです。私はその日から恐怖心が拭えません。またいつ表情を変えて私たちを襲って来るかわかりません。人間は自然に勝てない。人間という存在があまりにも小さなものであると痛感させられました。
震災から10年。変わったものといえば「街並み」や「人々の傷」(癒えたと言っても少々だと思うが)、変わらないものといえば「喪失感」。失った悲しみは一生消えることがないのかもしれません。私は被災者ではない。だから、偉そうなことも言えないしこの先どうしたら良いのか、被災した友人になんと声をかけて良いのかわかりません。だけれどせめて、あの日の出来事を記憶し続けようと思います。一生覚えておきたいと思います。それが私たち“非被災者”にできることなのではないでしょうか。
Write:げんちゃん

