自分を一言で表すとしたら、
”うっかり通訳になってしまった美術系の人”
でしょうか。
ですのでプロフィールは、“海外系の人”としてのものもと、“美術系目線”とが入り混じっております。
絵が好きだった幼少期〜10代
物心ついた時から絵を描くのが好きで、いつも絵を描いていました。紙さえあれば絵を描き、少女漫画があれば色を塗りました。
(自分で申しますが)上手でもあり、学校から出す作品展的なものはいつも入賞。 新聞や雑誌のイラスト投稿などにも、出せば採用されていました。
高校は呉市広にある広高校。
(学区外枠、当時“呉選抜”)
高校の体育祭で各クラスが掲げる3mほどの巨大なパネルがあったのですが、私のクラスのパネルは私がデザインし制作の指揮をとったものでした。(内気だったのに、そんなことをしたとは不思議です)
クラスメートに頼まれてイラストボードを描いてあげたりもしていました。
油絵も描きましたが、セルリアンブルーとレモンイエローを基調にした繊細な水彩画を好んで描きました。
絵は私の人生そのもの。
進路は美術系で迷いはなく、高校3年の時には美術の先生にデッサンなど 美大受験用の特別レッスンをしてもらっていました。
ある課題では作品を見た先生が「これ自分で考えたのか」と驚いておられたことが印象に残っています。
夏休みには親に美大の下見にも連れて行ってもらい、憧れの一人暮らしの大学生活に思いを馳せておりました。
直前で変更した大学受験
ところが。
なんと高3の冬という受験直前のタイミングで私は外大志望へ進路変更します。
英語も好きだったのと、広い世界を見たい知りたいという気持ち強かったこともありましたが、一番は、絵では将来つぶしがきかないと考えてのことでした。
そして大阪にある関西外国語大学へ。
(ちなみにCA採用者数全国1位です)
***
1回生の時、中国の上海外国語学院へ短期語学留学。
3回生の時には、3次試験までの留学試験を突破しアリゾナ州立大学に留学。
留学中は、文字通り朝から晩まで猛勉強し、気づけば英語が喋れるようになっていました(今から思えばまだほんの入口でしたが)。
友人達と、ニューヨーク、サンフランシスコ、ラスベガス、ロスアンゼルス、ヒューストン、ニューオーリンズ、マイアミ等々アメリカ各地を旅し、それぞれの地域の特色を肌で吸収しました。
国境を超えてメキシコティフアナ、カナダトロントへも、
大西洋上を飛んでスペインへも行きました。行く先々で、美しさがあり、人間や服装の特徴がありました。
帰国後、大学卒業前に再び渡米したり、ハワイにも2度行きました。
インターネットも携帯電話もない時代。
どこへ行くにも、
勇気と、「地球の歩き方」一冊だけを携えて。
就職、結婚、出産、海外生活
大学卒業後は広島の自動車メーカー マツダにUターン就職、海外部門に配属されました。
仕事では、ドイツ人、アメリカ人、イギリス人、スウェーデン人、ノルウェー人などの応対をしました。
OL時代は、今も続く友人を訪ねてシンガポール、香港、マレーシアを訪れ、同じ東洋人でも、骨格も肌色も顔立ちも様々なのだと知りました。
イギリスでは、こんなに美しく可愛い国があったのかと感動しました。(のちに住むことになろうとはこの時は知る由もありません)
***
こうしてずっと英語を“飯の種”にしてきた半生でしたが、その副流としてずっとあった思い。それは、
私の本質はあくまでも美術系だ ということでした。
くすぶる未練
美大ではなく外大に行き、留学し、英語を生かせる仕事に就いてからも、私はまだ絵に未練がありました。
絵の通信教育を受けましたが、情熱が湧きません。
結婚後の1994年に、大手町に今もあるヒューマンアカデミー広島校の「カラーコーディネーター」のコースを受講しました。
(現在は同じコースはないようです)
終業後の夕方から夜まで、1年間通いました。
講師は著名なデザイナーの方で、コースの内容はしっかりしたものでした。
色彩学、配色理論、色彩心理、インテリアカラー、そして、
パーソナルカラー。
パーソナルカラーとの出会い
スクールでの勉強は、心底充実していました。
私が知りたかったのはこれだ!
と、教わることの全てが一滴残らず、まさに"スポンジが水を吸うように"吸収されました。全てが明瞭に理解でき、実践もできました。
パーソナルカラーというものを知ったのはこのころです。
日本で出版された第一冊目のパーソナルカラーの本、「カラー・ミー・ビューティフル」(1986年 キャロル・ジャクソン、佐藤泰子著)を読みました。
形容詞など原語ではどういう単語が使われているのかまでキッチリ知りたくて、英語の原書(Color me beautiful Carole Jackson)でも読みました。
当時まだまだマイナーだったパーソナルカラーの考えに触れ、とてもわくわくしました。
同時に、この時既に色々な国の人々と交流のあった私は、皆黒髪黒い目の日本人にパーソナルカラーを当てはめることについて様々な疑問を抱き、以後ずっと頭のどこかでその疑問の答えを求めながら、外国人も日本人も見ていました。
カリキュラム終了時、AFTカラーコーディネーター(現在の「色彩検定」)2級を取得しました。
1級は、2次試験が広島では実施されておらず福岡まで行かないといけないというので受けませんでした。
以降、友人のパーソナルカラー診断をしたり、依頼を受けて塗料会社でカラーコーディネートの講義をさせていだだいたりなどしました。
家を建て引っ越したのと同時期に妊娠・出産、
そして子育てしながら夫の赴任でドイツに2年、イギリスに横移動して2年と、海外駐在をすることになり、
普及し始めたパソコンでイラストを描いてみたり、ホームページで海外生活を紹介したりなどしたものの、
せっかくのカラーコーディネートの知識を生かすこともなく年月が過ぎて行きました。
ヨーロッパの美しさを観察
駐在中は、フランス、ベルギー、スコットランド、スウェーデンなどに旅行もしました。
パーソナルカラーの起源となった「色彩論」を著したヨハネス・イッテンが教鞭を取った、憧れの美術学校「バウハウス」(ベルリン)(現在は資料館)へも行きました。
イギリスでは地域のスクールを探して通いケンブリッジ英検を受けたり、
現地マダムに交じって体操教室にも行ったり、ママ友を作ったりしました。最初イギリス英語がわからなくて苦労しました。
草原でのリアルピクニックは映画のよう。
敷物などの道具立てからして日本とは違うのだと知りました。
(同時に、日本の気候では同じようにはできないことも。)
現地の病院に入院した時には、病院の内装の違いや、看護師の制服の違いなども興味深く観察しました。
デパートのドレス売り場で現地の女性が試着しているのを見た時には、日本人(自分)とのあまりの違いにショックを受けました。
様々な場面で 「“洋服”はもともとこの人達の服なんだ」と実感しました。そもそもコンセプトが違うのだと。
色々な国の人と交流し、主にヨーロッパの文化、衣服や景観に対する意識など、色々なことを観察し自分の肥やしにしました。
社会復帰
ドイツとイギリスへの赴任を終え帰国後しばらくして、35歳で社会復帰しました。
現実的にはやはり“英語を生かせる仕事”になり、小学校、IT企業を経て外資系メーカーの社長秘書兼通訳に落ち着きました。
社内の英語講師も10年担当しました。
海外出張は、ドイツ、チェコ、メキシコ、ブラジル、中国、マレーシア、、多い時で年に6回。
来客対応は十数カ国から延べ約200名。
リアルにターバンを巻いたインドの方も数名対応しました。
みんな、肌の色、目の色、顔や体つき、そして美意識も、本当に様々です。
友達になったイタリア人家族と一緒にチェコ・イタリア・オーストリアを旅行したりもしました。プラハやベネチアは、外国慣れしている私でも、息をのむような美しさでした。
本質は美術系
他人から見れば「バリバリ英語系の人」。
でも、
私の本質は美術系であり続けました。
絵を描くことに対する興味は消えていましたが、美に対する強い執着はずっと私の人生の根底にありました。
海外出張などは、業務は過酷でしたが、内心は美術系としてのリサーチができることが密かな喜び。
欧米のビジネスパーソンのスーツの着こなし、シャツやネクタイのセレクト、女性の場合はパンプスやアクセサリーのチョイスなどを観察するのがとても有意義でした。
会議だけの日とプレゼンをする日とではスーツを変えていて(会議だけの日もスーツです)、本当にパリッとカッコ良いのです。
男性の靴へのこだわりも強いです。
仕事後のディナーでの装い、出張に持っていく服や靴の数など、さりげなくリサーチし、様々な気づきや発見を収集し続けました。
仕事以外の趣味は、
生け花、園芸、PCでイラスト描き、大人の塗り絵、ゼンタングル、スクラッチアート(細かいもの。相当はまりました)、陶芸など、美術系ばかり。
中でも最大の熱量を持って取り組んだのは、
美人研究・ファッション研究です。
誰に見せるでもなく小論文にまとめたり、各種マトリクスやリストを作って整理・分析したり。(研究家肌です)
スタイリスト本、ヘアメイク本、美容本・・・美人、オシャレと名の付く本はほぼ全て網羅してきましたし、歩き方や話し方、小笠原流などの美しい所作、靴からブラジャーに至るまで、ほんの少しでも美しくなることにプラスになるならと、ありとあらゆることを調査・研究してきました。
若いころのようにオシャレに時間とお金をかけることは忙しい大人にはできませんが、OL時代からファッションも大好きで、ファッション誌の切り抜きは30年ずっとスクラップし続けていました。
友達に「メイクさせて」とねだるのも、昔も今も変わらず。
英語をやめる決断
そして令和。インスタやTikTokなど新しいSNSが続々生まれていたアプリ時代に、コロナ禍が拍車をかけました。
まるでカンブリア紀の生物大爆発のように、イメコン系の動画や静止画での情報の共有も爆発的に広がっています。
一生かけても全部視聴することは不可能なほどに。
気付けば、ブルべ・イエベという言い方が流通していて、パーソナルカラー診断も色々な流派ができており、
更にはカラーだけでなく、骨格診断、顔タイプ診断を筆頭に、〇〇分析や〇〇イメージ等々・・・アレンジし、名称を変えて商標登録し、本を出し、スクールを作り、検定協会を作り・・・・・・
それは海外でも同じ。(複雑さは日本がダントツだと思いますが)
パーソナルカラー発祥の地アメリカでもやはり最初の4シーズンだけでは全ての人をうまく当てはめることに無理があったのでしょう。
12シーズン、16シーズン、シスターシーズン、ニュートラル等々、分化しています。
私は英語ができることを幸いに、海外(主にアメリカがやはり多いですが)のパーソナルカラーのサイトや動画で、より広く多く情報を収集し理解を深めています。
***
日本のパーソナルカラーの進化・分化を、かつて「カラーミービューティフル」一冊だったあのころから、ずっと見てきました。
日本人だけでなく、世界中の人間の色を見てきました。
私にとって英語は、より広く世界の美しいものを吸収するために必要でした。
でももう“大人の選択”、“ライスワーク(食べるための仕事の意)の英語”、は すっぱりやめて、私の本質であった美術系に戻ろうと決めました。
誰かをキレイにすることは私自身の欲求であり喜びで、しかも、「喜んでもらえる」ことに気が付いたのです。
サロン開業を決意してから、沢山の人にモニターに協力して頂いておりますが(本当にありがとうございます)、皆様楽しかったと言ってくださり、いつものご自分より綺麗になって喜んで頂けている手応えを感じています。
自分が長年執着してきたことで、人様にも喜んでいただけるなんて、こんな嬉しいことがあるでしょうか。
最後に
これまで順風満帆なわけでは当然なく、苦しいこと、悲しいこと、痛いこと、数えきれないほどありました。が、嫌な記憶には敢えて触れておりません。
Life is colorful.
その意味は、「人生いろいろあるさ」
暗い青があってこそ、明るいオレンジ色が引き立つのだと自分に言い聞かせつつ。
***
長くなりました。
全文読んで下さった方、本当にありがとうございました!
(令和2年度、3年度、海上自衛隊呉基地モニターを務めさせていただきました。)
〜広島市・東広島市・呉市・熊野町〜
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